feminism matters

英語(とたまに韓国語)のクィア・フェミニズム系記事の翻訳の貯蔵庫。

Rose McGowanの白いフェミニズムの背後にある長い歴史

Rose McGowan’s White Feminism is Rooted in a Long History of Beckery

Rose McGowanの白いフェミニズムの背後にある長い歴史

 

原文はこちら。https://wearyourvoicemag.com/identities/feminism/rose-mcgowans-white-feminism-rooted-long-history-beckery

 

2017/10/18

Maryline Dossou

 

1972年、ジョン・レノンとオノ・ヨーコは「女はこの世のN*****」というタイトルの曲を発表しました。レノンは正々堂々と、この曲はアイルランドの革命家であるジェームズ・コネリーの「女の労働者は奴隷の奴隷」という宣言にインスパイアされていると説明しました。また、これはレノンが過去女性への抑圧に加担してきたことを認めた上での、女性への謝罪でもありました。

 

この曲は論争も呼びましたが、多くの人に支持されてきました。2016年にも、MAD Magazineのシニア・エディターのJoe Raiolaがそのようなop-edを書きました。問題なのは、レノンはアイルランドの人々の闘争にインスパイアされたと主張しているものの、このフレーズはゾラ・ニール・ハーストンの「彼らの目は神を見ていた」の一文に非常にそっくりだということです。小説の中で、ジェイニーの祖母は「黒人の女はこの世のラバ」(De nigger woman is de mule uh de world.)だと言うのです。

そして最も問題なのは、いかに世界中のホワイト・フェミニストたちがこの曲を今日に至るまでポジティヴに受け止めているかということです。1972年、全米女性機構(National Organization for Women; NOW)は「力強い、フェミニストとしての宣言」としてオノとレノンに「女性のポジティヴなイメージ」賞を与えました。2011年、ニューヨーク市のスラット・ウォークではある女性がこの曲のタイトルを掲げて歩きました。そして2017年、ハリウッドの性的嫌がらせや性的暴行に関して発言し、フェミニストの英雄として話題になった女優のRose McGowanが、ジェームズ・コールデンへの応答し、残念なほど同じようなメッセージをツイートしました。そのツイートは現在削除されています。

「これこそまさに、金持ちで有名なハリウッドの白人男性特権そのもの。『女』をNワードに置き換えてみたらどう?どんなふうに感じる?」

McGowanはハリウッドで女性を苦しめてきた性的暴行について、とくにハーヴィー・ワインスタインの所業について、最もオープンに声を上げたうちの一人でした。ワインスタインを告発する人の数が40人以上に達し、これが#metooのハッシュタグに繋がりました。

性的ハラスメントや性的暴行を経験した女性たちがその経験を共有し、その問題がいかに蔓延しているかに光を当てる#metoo運動は、ツイッターで女性に呼びかけたAlyssa Milanoが始めたとよく考えられています。その問題?Ebomy Magazineはすぐ、#metoo運動は10年も前にアフリカン・アメリカンのアクティヴィストで性的暴行のサバイバーであるTarana Burkeが作ったものだったのです。(Milanoはその後、このことを認知しました。)

オノとレノンが、ハーストンの社会における黒人女性の役割についての宣言から曲のタイトルを書いたということは、フェミニズムの歴史的語りからも、言説からも削除されてきた黒人女性の傷口に塩を塗るような行為です。黒人女性についての宣言をホワイトウォッシュしたのです。このステートメントは、1830年代の中産・上流階級の女性たちが婚姻と奴隷制の状況を結びつけ、貧しい労働者階級の女性が自分の境遇を奴隷制の経済的不平等になぞらえたのとよく似ています。

ポジティヴに考えようとすれば、このような相関関係をみた白人女性は、奴隷制廃止運動のリーダーになったり、あらゆる人々の抑圧をなくすために立ち上がらなければならないと考えるようになったと言えるかもしれません。でもよく考えてみると、同じ白人女性たちは、黒人男性の権利が自分たちのそれよりも早く拡張していることに失望して、奴隷制廃止運動を捨てもしました。このいらだちは、フェミニストの英雄であるエリザベス・スタントンをして「女性ではなく黒人の投票権を願うくらいなら右手を切り落とす」と言わしめた程です。

問題なのは、McGowanの発言のようなメッセージについて議論しようとすると、その発言自体が煽っている「抑圧オリンピック」的な考え方を反復しなくてはならなくなることです。黒人の権利と女性の権利は全く異なる2つの運動です。それが交わるのは、唯一黒人女性を通じてです。黒人女性が、黒人のN*****であり、女のN*****なのです。

アリス・ウォーカーが「ウーマニズム」という考えを1983年にフェミニストの語彙に追加したとき、彼女はフェミニズムが紫ならウーマニズムはラベンダー色だ、と説明しました。ウーマニズムは、抑圧を受ける2つの集団の一員としての黒人女性の地位を表現しようとする言葉です。公民権運動において、黒人女性と白人女性の間の緊張関係は、ジェンダー抑圧の経験と、ジェンダーと人種の同時の抑圧の経験という不均衡さから生じました。どちらのアイデンティティのほうがより重要なのか決めるように迫られる立場に立たされ、「ウーマニズム」は黒人女性を2つのコミュニティの中心に置いたのです。つまり、白人としての特権も男性としての特権も得ることがない立場を理解する唯一のグループとして。

ジャーナリストでアクティヴィストのClaudia Jonesは、1947年の素晴らしいエッセイ「黒人女性の直面する問題の無視を終わらせる」で、フェミニズムのポテンシャルを最大限開かせるために、黒人女性との関係を改善する責任は白人女性にあるといいました。「革新派の白人女性の間の男性中心主義は、黒人女性と近い関係や友情を築きそこねるという形で、そして黒人女性の平等への闘いは自分たちの利益に適うものであるということを理解しそこねるという形で現れます。」

McGowanの発言のようなステートメントには問題があります。一つの集団の抑圧を他の集団のそれと対立させる(白人男性並の特権を求めて白人女性が歴史的にやってきた手法です)だけでなく、有色人種の人たちが、白人のヘゲモニーのもとで経験する独特な苦しみや、ジェンダーと人種が交差する複雑さを無視することになるからです。

女性の抑圧の経験を、黒人の抑圧の経験と比較することは、それを同時に経験する人がいるという事実を無視することです。女性がこの世のN*****であると示唆することは、フェミニスト的であるとはいえません。もしそれがフェミニズム的であるとしたら、フェミニズムはまたしも、有色人種女性のものではないのだと証明してしまうことになるでしょう。 

 

Author Bio: Maryline Dossou is an NYC-based writer, editor and activist who earned her BA in journalism from Temple University and her MA in Interdisciplinary Studies from NYU’s Graduate Center for Experimental Humanities. Her work focuses largely on race, gender, oppression and social justice. You can find her at her blog, Twitter and Instagram: melanin_monreaux_

なぜ「私は人種差別主義者ではない」というだけで話を終わらせてはいけないのか

Why "I'm not racist" is only half the story

なぜ「私は人種差別主義者ではない」というだけで話を終わらせてはいけないのか

 

Robin DiAngelo

2018/10/1

 

www.youtube.com

 

(以下は、動画の内容の要約です。トランスクリプトではありません。)

 

あらゆる抑圧のシステムは変幻自在で、批判に適応し、飲み込んでしまいます。例外を作り出します。公民権運動の批判にさらされ、人種主義のシステムも適応し、形を変えましたが、その最も強力な形が、人種主義を非常に単純な枠組みにしてしまうことでした。人種主義というのは、常に意識的に(そう、常に意識的でなければなりません)、人種に基づいて人を嫌い、意図的に意地悪なことをする個人(システムではなく、常に個人の問題)である、という考え方です。個人、意識的、意図的。そして、もしそれが「私の」人種主義の定義であれば、私の発言や行動のなにかが人種主義的だとか、人種主義的な効果をもつというあなたの言葉を、このように受け取ることになるでしょうーーあなたはたった今、私を悪いやつだと言っている、と。私を、「あっち側」の人間扱いしていると。

私がもっているバイアスは、たいてい意識にはのぼりません。だから、私はわざとやったのでもないし、意識的なのでもないのです。だから、自分が悪いやつではないと自分を擁護せねばならず、私もそうするだろうし、みなさんもそういう場面をみたことがあるでしょう。この人種主義の定義を採用するなら、普通の白人の人が、自分が社会の中に適応してきた過程を振り返り、不可避にも内面化されてしまった人種的偏見、人種主義的な行動パターン、そして人種主義のシステムが維持されるような行動をとり、そこから利益を得ていることに気づくことはほとんど不可能です。なぜならそのシステムは非常に居心地がよく、自分の利益にかなっているからです。だから、先にあげた人種主義の定義や、善悪の二項対立的考え方は、人種主義というテーマに対する白人の神経質的な自己擁護の態度の根本原因だと思います。なぜなら、このような考え方だと、普通の白人の人たちが、人種主義の水の中で泳ぎながら不可避にも吸収してきた人種主義的な世界観について話すことがほとんど不可能だからです。

「白人のかよわさ」(white fragility)という言葉は、私達の世界観、アイデンティティ、人種的な立場が批判を受けたときにあまりに多くの白人が示す、神経質な自己擁護の態度をとらえるための言葉です。非常によくある流れだと思います。この言葉が多くの人の共感を得るのには理由があると思います。自分で、「白人のかよわさ」について説明しようというこの瞬間にも、白人の人たちが、人種主義の話題や、自分が人種のことで批判を受けていると感じたとき、非常に自己擁護的になるのは見て明らかです。

だから「かよわさ」というのは、いかにそんな自己擁護的な態度にさせるのが簡単か、ということを示しています。多くの白人にとって、白人であるということに何らかの意味があるという意見すら、非常な動揺をもたらすのです。また、白人というのを一般化されることにも、非常に動揺します。たった今、私も白人というのを一般化して話しているわけですが、それこそがこのイデオロギーを暴くためのことです。つまり、多くの白人は、自分自身を個人として見るように育てられるのです。だから、一般化されるのが嫌いです。しかし、社会的な生活というのはパターン化されており、具体的に観察・予測することが可能です。もちろん私達はそれぞれにみんな独自の存在ではありますが、同時にに、社会的な集団の一員でもあります。そして、そのメンバーシップというのは大きな意味を持つのです。非常に重要なのです。

私の母や私が、無事に出産ができるか、どのくらい長く生きるかといったことも、人種によって予測することが可能なのです。私達の人生において非常に大きな意味を持つ、ある集団に属しているという事実からくる集団的経験のことを、もっと真剣に考える必要があります。私達は、人種によって深く分断され、不平等な社会に行きています。私達は、それを知っていると思っています。それをどう説明するか、というのは人によって違うでしょうが、私達の社会が分断されていて不平等であるというのは非常に、非常に明らかなのです。

白人である私達を、人種に関するトピックで動揺させるのが非常に簡単であり、その意味で非常に「かよわい」としても、私達の反応はまったく「弱く」ありません。この神経質な自己擁護や、傷ついた感情というのが武器に転化するのです。そして、この武器は、批判を無効にするのに非常に効果的なのです。白人の一人として、私はほとんど24時間いつでも人種に関して居心地の良さを感じながら生活しています。この居心地の良さが失われるというのは例外的な瞬間であり、そのような居心地の良い空間を出ていくなと注意を受けながら私達は育てられてきているのです。

だから、人種に関して居心地の悪さを感じるという例外的な瞬間に、私の人種についての「てんびん」がおかしくなってしまったように感じ、元の状態に戻そうとするのです。そのために、批判をかわすためのあらゆることをします。そうすることで、「白人のかよわさ」は、平たく言えば、白人による人種的ないじめとして機能するのです。私達は、有色人種の人たちが、白人が不可避にも、そしてしばしば無意識に示す、人種主義的なパターンーー人種主義が基礎となっている私達の文化の中で社会生活を送るうちに、発達させてこざるを得なかったーーについて話すことを非常に惨めな経験にしてしまいます。あまりにもそれが惨めな経験なので、有色人種の人たちは、そのことについてほとんどの場合口を閉ざしてしまうでしょう。多くの有色人種の人たちが、白人に囲まれた環境で働いたり、生活しながら、私達に話してくれるよりもずっと多くの傷や侮辱を受けて家に帰るのだということを理解せねばなりません。

 

紙の上のキャラクターじゃない:シントニア・ブラウンと被害者の描かれ方

Not A Cardboard Cut Out: Cyntoia Brown and the Framing of a Victim

紙の上のキャラクターじゃない:シントニア・ブラウンと被害者の描かれ方

 

2017/12/06

Mariame Kaba and Brit Schulte

 

原文はこちら。https://injusticetoday.com/not-a-cardboard-cut-out-cyntoia-brown-and-the-framing-of-a-victim-aa61f80f9cbb

 

2004年8月6日、16歳のシントニア・ブラウンは、ブラウンをセックスのために家に連れ込んだジョニー・アレン(43歳、ナッシュビル出身)を撃ち、殺した。自衛のためだったとシントニアは後に警察に語っている。アレンがシントニアを家に連れ込んだ後、彼はシントニアにショットガンやライフルを含む複数の銃を見せた。シントニアの法廷での供述によれば、その後ベッドの上で、シントニアは自分の財布から銃を取り出して彼を撃った。

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私たちは弱者なのかテロリストなのか?:ムスリム女性が暴力的な偏見の網の目にとらわれる方法について

私たちは弱者なのかテロリストなのか?:ムスリム女性が暴力的な偏見の網の目にとらわれる方法について

Are We Weak Or Are We Terrorists? Here’s How Muslim Women Are Caught In The Web Of Violent Stereotypes

 

Hadiya Abdelrahman

2017/10/30

 

原文はこちら。https://everydayfeminism.com/2017/10/muslim-women-stereotypes/

 

私が15歳の頃、母にホームスクールにしたいと頼みました。9/11から5年ほど経って、私はまだ人々から向けられる視線に慣れることができていませんでした。店の通路で、知らない男が私の母に「この国から出て行け」と叫びながら追いかけてくるという事件があった時でした。母は私の頼みを聞いてくれ、ホームスクーリングしている間、私はグレン・ベックの番組やCNNを熱心に見ました。人が誰かをイスラム教テロリストかムスリム過激派とラベル付けする、考えられうるあらゆる方法について頭に叩き込みました。

 

グレン・ベックの番組にメールを出し、アンダーソン・クーパーのブログや、コメント欄のついている場所ならどこにでも書き込みました。私自身のこと、私の存在を説明しなければならないという思いに駆られていたのです。世界はムスリムにとってあまりにも暗い場所に見え、私は公の場に出るのを避けるようになりました。母と買い物にいくことも少なくなり、人目につくような場所にはいけなくなりました。世界は、インターネットのコメント欄のように広く、憎悪に満ちていました。数え切れないほどたくさん、人の考え方を変えようと試みましたが、人々は憎悪を持ったままでした。グレン・ベックやその他大勢の「ムスリム女性がいかに抑圧されているか」を説く人々に応答し続けました。しかし、どんなに私が、15歳の自分の人間性について世界に説明しようとしても、そこには私の居場所はないと思い知らされるだけでした。

 

複数のコメントに一度に返信し、私は抑圧されていないと説明しようとしたときのことを覚えています。私は10代の若さで、学校に行くことが出来るし、自分で選ぶことができると。人々があまりにも過度な一般化をしていると人々に気づかせようとしていたのだと、当時の自分はまだ解っていませんでしたが、必至でこの家の外にも私の居場所があるのだと信じようとしていました。振り返ってみると、毎日を矛盾の中で生きていた子どもにあまりにも申し訳なく感じざるを得ません。同情の対象であり、同時に脅威であると思われているというジレンマは簡単なものではありません。

 

同情の対象であり脅威の源でもあるという矛盾は、大学時代に西洋世界の有色人種やムスリムに対する抑圧について多くを学ぶようになってからも続きました。この明らかな矛盾は、私には衝撃的で、理解不可能なものでした。ムスリムの女性の1人として、どうして私が従順で、抑圧されていて、弱者であると同時に、西洋世界に対する最大の脅威のシンボルでもあるということが可能でしょうか?多くの人は、このような2つの矛盾した攻撃に晒され、応答しなくてはならないときの内面的葛藤についてまったく気づいていないようです。とくに、私たちの世界の男性——彼らはまた、FBIの監視、収監、拷問の被害者でもある男性たちですが——はムスリムの女性と世界全体を脅かすテロリストであり、彼らから私たちは救われなくてはならないという考えがもたらす葛藤について。

 

数年前、イラクの占領がイラクの女性に与える影響について詩を書きました。とくに、アメリカ兵にレイプされた若いイラク人女性の話について。その締めくくりはこうです。

 

あの人たちは会議の途中で彼女について話したことが一度でもあるのだろうか/すでに死んだ男たちから女をどう守るかを話ながら、フォークとナイフが音を立てる

 

ムスリム女性を救わなくてはならないという考えは、ムスリム男性に対する暴力のシステムと一体です。ローラ・ブッシュがアフガン女性を救うと呼びかけ、フランスでのヘッドスカーフの禁止やアメリカのアフガン侵攻が始まったことは、私達が脅威であり犠牲者であるという世界の矛盾の最たる例です。ムスリム女性は西洋の公共圏に対する最大の脅威と思われていると言いましたが、これはムスリム男性と女性は全く違うと言っているわけではありません。「イスラム教テロリズム」は一般に脅威とされていて、そして女性「と」男性がそれを体現しているとされています。ただし、ムスリム男性は同時に「抑圧されている」というイメージと闘わなくてはならない、ということはありません。アフガン侵攻の2週間前、ローラ・ブッシュは言いました。「世界中の文明化された人々は、恐れおののいています。アフガニスタンの女性や子どもたちを思って心を痛めているから、というだけでなく、アフガニスタンは、テロリストが私たちに押し付けようとしている世界を示しているからです。」

 

私たちが攻撃に最も晒されていると同時に、好戦的な同情の対象でもあるとき、矛盾が生じます。何がどうなって、私たちは救われなくてはならない対象であると同時に、攻撃の対象でもあるのでしょうか。このことを理解するまで、長い時間がかかりました。私のヘッドスカーフは私の抑圧と弱さのシンボルであり、しかし、私が抑圧されていると固く信じている人に囲まれる時、非常に不安で緊張します。ヘッドスカーフが救出を必要としている女性の抑圧のシンボルであるなら、なぜヘッドスカーフをしている女性は雇用を拒否されたり、教育を受けることを許されなかったりするのでしょうか?女性の前進を助けようとしている場が、しばしば、同時に女性の基本的人権を否定する最前線に立っていたりするのはなぜでしょうか?

 

2010年、フランスで、「全身を覆うベールは女性の従属のシンボル」「隷属の鎖」であり、ベールの禁止は「女性を解放」し、ゆえに「フランスの、全世界の抑圧された女性への支持」を示すという議会報告書が提出されました。そして、これは即座に「抑圧された」女性が雇用や教育へのアクセスを失うということを正当化したのですが、雇用や教育は女性の解放に必要ではないですか?西洋が、全身や体の一部を覆うことは選択であると考えもつかず、男性から強制されているに違いないとしか思えないのは、西洋のムスリム女性への見方を反映しています。私たちは弱く、私たちは自分の意志で選択ができないということです。

 

この見方は、女性が公共圏にアクセスすることを否定したい西洋の欲望と結びついています。要するに、私たちが満ち足りているとか、能力のある存在だと認識不可能なのです。これは女性を解放したいという欲望とは全く関係がなく、何世紀にも渡って存在する西洋世界の有色人種の人々に対する人種主義と排外主義を悪化させるだけの議論です。「解放」とか「自由」といったリベラルの畏まった語彙を使っていても、要するに、純粋に「西洋」の空間である、コミュニティや社会の人種や民族に基づく分離を作りたいと言っているのです。

 

この矛盾は、ローラ・ブッシュの言葉の中に現れています。彼女は9/11の後のアフガン軍事侵攻の熱烈な支持者であり、アフガン女性の苦境と、彼女たちを文明世界が救出する必要をその根拠としました。その抑圧のシンボルが、アフガニスタンで多くの女性が着用している「ブルカ」であったわけです。軍事侵攻の後、ローラ・ブッシュはこう述べています。「アフガニスタンでの軍事的成功によって、女性たちはもう家庭に閉じ込められることなく、音楽を聞き、罰を受ける恐怖を感じることなく、娘を教育できるようになった。」「弱者女性」の解放は、軍事侵攻から数年何度も繰り返し語られました。

 

これはまさに、インド出身のフェミニスト理論家ガヤトリ・スピヴァクが「サバルタンは語ることができるか?」というエッセイで述べたことです。「白人男がブラウンの女性をブラウンの男性から救う。」さて、アフガニスタンでは女性はブルカを着用しなくてもよくなったわけですがーー侵攻から16年経って、ブルカを着用する女性の数は劇的に減っているわけではないにしろーーアフガニスタンの女性たちの抑圧は軽減されたのでしょうか?軍事侵攻から16年の間に、戦争で多くの女性が命を失い、暴力や恐怖のうちに生きているというときに、解放とは一体何のことでしょうか。

 

私はこの矛盾をどう考えていいかわかりませんでした。長い間、私は2つのアイデンティティを上手に取り扱う事ができると思っていました。強い女の子であり、同時に、人を攻撃したりしないソフトな存在であること。15歳で始めたホームスクーリングは1年でやめました。1年間家で過ごし、孤独の中で深く考え込み、可能な限り大量の本を読みました。この1年の間、私の人生を変える本に出会いました。今でも何度も読み返す本たちです。1年の間に成長したと思いますし、両親はプライドと勇気を持つことの大切さを教えてくれましたが、ホームスクーリングをするというのは私の子どもには選択してほしくない選択肢です。9/11後の世界を生きるムスリムで、ブラウンのアメリカ人少女であることは、「9/11後」というパラダイム同様に非常にユニークなもので、両親や周りの人たちの助けがなければ理解できませんでした。複数の、矛盾するアイデンティティを持つという困難を経験し、自分の子供とは、自分の肌の色について悩んだり、人から向けられる言葉に消耗しないですむように必要な会話をしたいと思っています。そういう会話の難しさや私の経験から、私は自分の子供には、世界をあるがまま経験し、自分の置かれた場所について理解してほしいと思います。同時に、自分のいる場所を祝福し、自分の中に力があることにも気がついてほしいとも思います。何年も疑心暗鬼になったり、不安になったり、自分の身の回りで起きていることが理解できないという経験をし、私は2つのうちのどちらかであろうとしても、そのどちらも十分ではないのだとわかりました。ヘッドスカーフではなければ名前、名前でなければ私の信仰や民族…何らかの理由をつけて常に抑圧が降り掛かってきます。

 

このエッセイを、ライラ・アブー=ルゴドの言葉で締めくくりたいと思います。「ムスリム女性は本当に救出を必要としているのか?」というエッセイで、彼女はムスリム女性の救出と対テロ戦争の関係について論じています。このエッセイは、ムスリム女性の悪魔化とアメリカの帝国主義についての素晴らしいエッセイです。ムスリム世界でのアメリカの暴力がムスリム女性の「救出」と結び付けられていた時代に非常に重要であったエッセイであり、西洋フェミニズムと西洋帝国主義の繋がりに関心のある人には必読のエッセイです。

 

アブー=ルゴドはこう述べています。「私たちは世界の外側で、抑圧的な文化の影の下——もしくはベールの下——に生きながら、貧しく愚かな人の波を眺めている存在ではありません。私たちはこの世界の一部であり、イスラムの運動はそれ自体、西洋列強が中東の人々の生活に激しく食い込んできたことによって作り出された世界の中で、生じたものなのです。」

 

Hadiya Abdelrahman is an Everyday Feminism Reporting Fellow. Hadiya graduated from Rutgers University with a double major in Women and Gender studies and Middle Eastern Studies. Hadiya currently works with refugees and asylees in NYC. When she’s not at work, Hadiya writes angry rants and poetry. She enjoys writing about topics that focus on refugees, intersectional feminism, and state violence against people of color.

女の友情のための13のルール

Roxane Gay Lists 13 Rules for Female Friendships

女の友情のための13のルール

 

2014/9/14

Roxane Gay

 

原文はこちら。http://womensenews.org/2014/09/roxane-gay-lists-13-rules-for-female-friendships/

 

1. 女の友情なんてなく、女の間にあるのはやっかみ、嫉妬、比べ合いばかりだという決めつけは捨ててしまいましょう。この決めつけは、ハイヒールやパーティー用のクラッチバッグのようなもので、見た目は可愛いかもしれないけれど、女性の歩みを遅くするように作られているのです。

1A. これは、女性たちが互いにやっかみあったり、競い合ったりしないという意味ではなく、それだけが女の友情の決定的な特徴であるというのは間違いだということです。とくに、年齢を重ねるにつれ、そうです。

1B. もしあなたが、親友に対して僻みややっかみを感じたら、それがなぜなのか考えて、どうすれば解決することができるか考えるか、誰か問題解決を手伝ってくれる人を見つけましょう。

 

2. 女の友情は成立しにくいとか、壊れやすいとたくさん言われてきました。そんな決めつけを擁護するような文章を読むのはやめてしまいましょう。

 

3. もしあなたが、「私は男友達とのほうが気が合うから」と、しかも自慢げに、あたかも男性と近づき、女性と距離を置くのが良いことで、女性であることが悪いことであるかのように言うようなタイプの女性なのでれば、1Bを参照のこと。男友達のほうが多いのは問題ないですが、それを根拠に女の友情についてとやかく言うようであれば、そうですね、ちょっと自己分析してみたほうが良いでしょう。

3A. もし女性の友達を見つけるのが難しいと思うなら、問題なのは「女性」ではないという可能性を考えてみてください。単にあなたの問題なのかも。

3B. 私も昔そういう女だったので。気に障ったならごめんなさい。

 

4. ときに、あなたの友達が、「なんでこんな人と!」とあなたは思うような人と付き合い始めることがあります。正直にそれを伝えてもいいし、嘘をついてもいいでしょう。どちらにもそれなりの理由があります。ときに、あなたが、友達にはまったく理解のできない人と付き合っているということもあるでしょう。あなたの恋人がろくでなしだったとしたら、もう割り切ってしまって友達とはもっと楽しいことを話せるようにしましょう。私が手っ取り早くよく言うのは、「ろくでなしと付き合ってるけど、私も怠け者だから」です。よければどうぞ使って下さい。

 

5. あなたの友達が常に望みを叶えられるようにとそれだけを考えましょう。あなたの友達が幸せで、成功している時、たぶんあなたが幸せになることがもっと簡単になります。

5A. あなたが大変な目にあっている時、あなたの友達は人生の中で最も充実して幸せな時間を過ごしているとして、もしあなたが後ろ向きにしか物事を考えられないとしたら、1人で考えるか、セラピストに相談するか、日記に書きましょう。あなたの友達にあったとき、1.で書いたような事態にならないように。

5B. もしあなたの友達が同業者で、協力したり互いを助け合えるなら、躊躇わずそうしましょう。あなたの友達が素晴らしいのはあなたのせいじゃありません。男は「縁故主義」を発明し、男同士のネットワークの中で生きています。女性が女同士のコネを使ったっていいはずです。

5C. 他の女性を中傷するのはやめましょう。もしその人があなたの友人でなくても、彼女は女性で、それは考慮すべきことです。これは、他の女性を批判するなというのではありません。建設的な批判と無慈悲な中傷の違いを理解しようということです。

5D. 誰だって噂話をします。だから、もしあなたの友達の噂話をするなら、少なくとも楽しい、面白いことだけにしましょう。「私は嘘なんてつかない」とか「噂話なんてしない」なんて絶対言わないこと。なぜならそれは嘘だから。

5E. もしあなたが子供嫌いでも、あなたの友達の子供を愛しましょう。四の五の言わず、大事にしましょう。

 

6. あなたの友達にとっては耳の痛い話だとしても、言うべきことはちゃんと言いましょう。彼女は気分を損ねるかもしれないけれど、それが彼女のためです。昔、私の親友が私の恋愛関係をどうにかしろ、ちゃんと行動計画を立てろと言ってきたことがありましたが、当時はいらついたものの有用なアドバイスでした。

6A. 本当のことをいうとき、無礼にはならないように。友達が実際に行動を起こすのに、どの程度の真実を伝えないといけないのか考えましょう。戦略が重要です。

6B. そんな会話も、遊び心を忘れず楽しく。

 

7. あなたが酔っ払っても大丈夫と思える人、あなたが酔っ払っても顔にいたずら書きせず、調子に乗りすぎて吐きそうになったら助けてくれ、飲みすぎていたり態度が悪くなったらちゃんと言ってくれる女友達と付き合いましょう。

 

8. あなたの友達のパートナーを誘惑したり、セックスしたり、恋愛感情を持ったりするのはやめましょう。言うまでもないことですが、大事なことです。あなたと浮気するような友達のパートナーはろくでなしで、あなただって中古のろくでなしと付き合いたくはないはずです。ろくでなしと付き合いたいなら、新品の、他の人のではないろくでなしを。そんなのそこら中にたくさんいます。

 

9. あなたの友達が、「こんなもの着て私と出かけるつもりなの!?」という服やアクセサリーを買おうとしていたら止めましょう。常識です。

 

10. 何か問題があって、友達と話す必要があるとき、「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫」と言わないこと。友達にはそれが嘘だとわかるし、「本当に」「たぶん」「本当に??」「大丈夫だって!」とやりとりする無駄な時間でイライラさせるだけです。正直に大丈夫じゃないと伝えて、ふくれて見せるか、ただ別の話題に移るかしましょう。

 

11. もし4人で食事しているとしたら、お会計は平等に4等分しましょう。もう大人ですから。お金のある人が多めに出す、というのももうしなくていいでしょう。お金を使いたいなら、ただみんなにご馳走すればいいでしょう。もし財布の事情が厳しいなら、自分の分だけ払えばいいでしょう。

 

12. もし友達が恋愛、人生、家族、仕事などについて不安になり、あなたの「大丈夫だよ」を求めてあほらしいメールを送ってきたとしたら、ただ「うん、わかったから」という一言だけでも遅れず返信しましょう。もしそんなメールを30通連続で送ってきたとしても、我慢強く。いつか、あなたも友達のGmailの受信箱を自分の話でいっぱいにする日がくるからです。

 

13. 私の母の好きなことわざは「類は友を呼ぶ」です。母は、私が母の気に入らない人たちとつるんでいると、いつもしかめっ面でそう言いました。要するに、あなたという人間は、あなたの周りにいる人によって決まるということです。

 

Roxane Gay‘s writing has appeared or is forthcoming in Best American Mystery Stories 2014, Best American Short Stories 2012, Best Sex Writing 2012, A Public Space, McSweeney’s, Tin House, Oxford American, American Short Fiction, West Branch, Virginia Quarterly Review, NOON, The New York Times Book Review, Bookforum, Time, The Los Angeles Times, The Nation, The Rumpus, Salon, and many others. She is the co-editor of PANK. She is also the author of the books “Ayiti, An Untamed State,” “Bad Feminist” and “Hunger,” forthcoming from Harper in 2016.

リベラル男性はフェミニズムをわかっていると思っている。でも全然わかっていない。

 

Liberal men think they know feminism. They really don't

リベラル男性はフェミニズムをわかっていると思っている。でも全然わかっていない。

 

2017/10/19

Jessa Crispin

 

原文はこちら。https://www.theguardian.com/commentisfree/2017/oct/19/liberal-men-feminism-harvey-weinstein

 

ようやく、私たちの文化も(一部の)女性に対する暴力を、(ある程度)深刻に考えようとしているようで、これまでずっとヒソヒソと話されてきたことが、公に語られるようになりました。ここ数週間に、いわゆる「教養」もあってリベラルとみなされてきた産業の男性たちが、ハラスメントと性的暴行の疑惑によってその評価を落としています。

自分の権力を乱用しつつ、進歩的政治やフェミニズムの主張の光の影の中に隠れることで、それをなかったことにしてきた男性の数の多さには驚かされます。

ハーヴェイ・ワインスタインは女性監督を擁護してきたのに、本当にそんなに酷いやつなのか?ミッチェル・サンダーランド(オンラインマガジンBroadlyの編集者)はフェミニスト向け雑誌で働いているんだから、オンライン上での女性に対するハラスメントを焚き付けるようなことはするはずがない。マット・タイビは女性嫌悪と政治の腐敗についての素晴らしい記事を書いているんだから、彼が自分の部下の女性にセクハラしたのを自慢しているのも無視する。

女性の問題について書いてきて、フェミニストを自認してきた左派系のライターたちが、いま暴行と強姦の容疑をかけられています。公には、彼らは自分たちは私たちの仲間だと言ってきましたが、プライベートでは、真の姿を明らかにしたというわけです。

まちがいなく、偽善的です。でも、それだけではありません。男性のフェミニストは、長い間左派からも右派からもからかいの対象となってきました。自分たちのことを勝ち組男性だと思っているオルトライトは、男性フェミニストは男のヒエラルキーの中で最下層であるゆえに、女にさえ跪くのだと言ってきました。

左派の間には、自分のことをフェミニストだという男は、女とヤリたいだけだという暗黙の理解がずっとありました。サタデー・ナイト・ライブでネタにされるほどです。理解ある仲間として振る舞うとしても、それは暗い真実を隠すためだけなのです。つまり、男性はフェミニズムにまったく出会ったことがないということ。

もちろん、リベラル・アーツ大学でフェミニズムの授業をとったとか、女性が道で失礼な言葉をなげかけられたり不必要に高い美の基準を押し付けられたりするのは酷いことだと考えたり、保守のキリスト教徒の政治家が女性の中絶の権利を奪うのはアンフェアだと考えていたりするでしょう。女性の問題について「正しい」ことを全て信じていたとしても、それでも、彼らは女性のことを、自分の性的快楽のための道具であるかのように扱うのです。

男性にとって、フェミニズムとは「こう考えるべき」とか「こういう候補に投票するべき」であってはなりません。女性のことを表現するのに間違った表現を使わないとか、道ですれ違う女性に対して失礼なことをしないとかではありません。それは、暴力的な振る舞いにつながる、暗い、自分の無意識の中にある衝動に光をあてるプロジェクトでなければなりません。

ジェンダーの間の権力の不均衡は、生まれた瞬間から刷り込まれるもので、私達の文化的価値(強さと権力が、共感と柔らかさよりも尊ばれる)は娯楽、ニュース報道から政治構造にいたるまで、あらゆるものから伝染するのです。

公の場で女性に対するリスペクトを示すことと、女性と二人っきりでいる時、彼女は彼女自身のニーズと欲望をもつ1人の人間なのだと無意識もしくは意識的にちゃんと理解しているか、は別のことなのです。アルコールと性的欲望は、建て前のベールの下から無意識の内の信条を持ち出し、自分でさえ気づいていなかったような自分自身を晒します。

フェミニズムは男性にとって、精神的な覚醒、公とプライベートの両方で女性の抑圧に自分が加担してきた方法についての目覚めであるべきです。

男性にとってのフェミニズムとは、自分自身の一部を知ることであるべきです。自分が単に弱さだと見過ごしてきた、自分の中の女性的な性質や共感する能力や傷つきやすさを知り、それを取り戻そうとすること。これは、心理的、スピリチュアル的でさえあるプロジェクトで、単に政治的なものではありません。

それが理解されるまで、男性にとってフェミニズムは存在しないも同然です。このことを理解している男性があまりにも少ないということは、男性性の未来は暗いということです。

ハラスメントや暴行の報道は今後もひっきりなしに入ってくるでしょう。新しい怪獣が、すでに地に落ちた怪獣に取って代わる。そして男性たちは、フェミニストTシャツの下に怪獣の心が眠っていることに、いつまでも驚き続けるのでしょう。

 

Jessa Crispin is the author of Why I Am Not a Feminist: A Feminist Manifesto