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泡風呂のセルフケアを越えて:コミュニティケアという理想に向けて

Beyond Self-Care Bubble Baths: A Vision for Community Care

泡風呂のセルフケアを越えて:コミュニティケアという理想に向けて

 

原文はこちら。https://www.autostraddle.com/on-being-a-burden-whats-missing-from-the-conversation-around-self-care-385525/

 

2017/7/20

Abeni Jones

 

去年、とくにしんどかった時期、鬱のせいで3週間ずっと自分のアパートから出ることができませんでした。テイクアウトの箱、汚れた洗濯物、惨めさが山のように重なり、でも一人暮らしなので誰もそんな惨めな状態の私を知る人はいませんでした。無茶苦茶になってしまった部屋と自分が恥ずかしく、助けを求めることも恥ずかしく思いました。そうでなくても忙しかったり、それぞれに苦しんでいる友達に迷惑をかけたくありませんでした。余分に感情労働をさせたくなくて、声をかけられませんでした。友人たちのお荷物になりたくなかったのです。

でも私は、私が与えられる以上のものが必要なんです。実際のところ、お荷物。そして、それで構わないんです。

ようやくFacebookを開いて、うつ病関連でのヘルプを求める謎めいたメッセージを投稿したところ、私が受け取った最初のコメントは「落ち込んでいる時に自分を大切にする方法」というタイトルの記事へのリンクでした。私は「落ち込んでいる」のではなく闘っているんですが。それでも、一応その記事に目を通しました。お風呂に入る、よく寝る、部屋を掃除する、ヨガ教室に行く…どれも良いアイディアに見えましたが、どれも私にできることではありませんでした。私は何もできなかったんです。自分の面倒を見ることさえ、できなかったのです。

毎週のように、セルフケアを宣伝するまとめ記事がソーシャルメディアのフィードに流れてきます。アクティヴィストのためのセルフケア、フェミニストのためのセルフケア、お金のない人のためのセルフケア、忙しい人のための、先生の、治療者の、有色人種のための…。Autostraddleで「セルフケア」と検索すれば、たくさんの記事がヒットします。私は、セルフケアの重要性を軽視しているわけではありません。セルフケアはとても重要で、その必要性が広く理解されるようになってきているということは素晴らしいことです。でも、セルフケアは完全でもありません。

セルフケア運動の批判というのも溢れています。でも、セルフケアという言葉が問題なのは、それがすでに忙しい人にさらなる時間と支出を要求するからでも、私たちがやっている運動が命を与えるのではなく損なっていると決めつけているからではなく、障害をもつ人がすでに行っている普通の、日常のことを覆い隠すからでもありません。そういう批判も重要ですが、十分ではありません。

私や他の障害のある人が生き延びるために、ケアが、私たち自身によってなされるものではない、ケアが必要です。なぜなら、状況がひどく悪くなると、私にとってはセルフケアというのは字義通り不可能になるからです。そういう瞬間に、私に必要なのはコミュニティケアです。

私が死なないようにするために必要なことを進んでやってくれる優しい仲間のサポートネットワークが必要です。私がFBに謎めいたメッセージを残した時に、ただ「いいね」を押したり「元気になってね!」とメッセージを残すのではなくて、様子を見に来て、私にほんとうに必要なものが何か確認してくれる人が必要です。夕飯を準備してくれる人、洗濯をして、アパートをきれいにしてくれる人、セラピーに行けるよう勇気づけたり、車を出してくれたりする人が。

革新派の運動の中でも互いを大事にしようということは教わりますが、そこでの前提は、ギブアンドテイクです。私があなたの面倒を見て、あなたも私の面倒を見る。私は他の人の世話をするのは好きですし、可能なときには最大限そうするようにしています。お金のある時は、コミュニティの中で困っている人に寄付するし、病気の友達のためにご飯を買って届けたりするし、誰かを慰めるために外に連れ出すこともあります。そうでなくても、友達を招いたり、必要な人のためには感情労働もするし、プレゼントするためにアート作品を作ったり優しい言葉をかけたりもします。でも、それは釣り合いの取れたやりとりとは限りません。たまに、いやかなりの頻度で、私は私が他の人に与えられる以上のケアが必要になるのです。

セルフケアという言葉が私たちに教えるのは、他の人の重荷になるな、ということです。なぜなら、セルフケアは自分が自分のためにできることにフォーカスしているから。私たちは、自分に必要なものはすべて自分が持っていると、自分を変えたり豊かにするための力は自分の内側にあり、それをうまく使いこなせばいいだけなのだと言われます。自分1人で自分を苦しめる悪魔をやっつけ、リフレッシュした気持ちでまた闘う準備ができるのだと。セルフケアについての記事に書いてあることを全部やるのは、多くの人にとって不可能だし、そのうちのたった1つのことさえできない人もいます。人の迷惑になること、荷物になることを悪とする文化の中で、人に助けを求めるということはどの程度現実的でしょうか。

「コミュニティケア」という言葉が出てきたのは最近ですが、この言葉が使われるときには、私たちが集団として行う運動の仕事のことを意味するのが普通です。「コミュニティ」全体のケア、ということのようです。「コミュニティケア」と言うときには、政治的な目標やより公正な立法のためにデモしたり更新したりすることや、「〜〜コミュニティのアライになるにはどうすればいいか」ということや、低所得者の居住区のインフラを向上させる、など。これらのことは非常に重要です。でも、私がコミュニティというのを考える時、私はもっと小規模で、互いに面倒を味合える人と人の間の社会的なネットワークのことを考えます。私は、コミュニティがそのコミュニティの中の個人を、とくにその人が自分で自分のケアをできないときに、世話するというのはどういうことか、というのを考えたいのです。

私が自分にとっての最良の人生を思い浮かべる時、うつ病というのはそこに入ってきません。いつも自分で自分のご飯を準備する元気がある。自殺を考えたり、唯一「生きなくては」と思わせてくれるペットの猫を撫でながら、ベッドから出られずにいるということもない。薬もちゃんと飲む。健康に良いご飯を作り、マニキュアやペディキュアを買うだけの小金と時間もある。積極的に運動にも参加する。趣味をもって、友達とも出かける。そして自分の面倒を自分で見ることができる。

でも、そんな理想の人生はおそらく実現不可能なのです。私の脳の化学反応は変わらず、病気はずっと私に取り憑きつづけるだろうと考えるほうが現実的です。この現実を踏まえた上で、私にとっての最良の人生とはどんなものなのか?

それはこんな感じです。強く、深く結ばれた思いやる人たちのコミュニティがあり、自分が立っていられない時に支えてくれる。私が困っている時に、私が声をかける前に(恐らく声をかけるということができないだろうと)察して様子を見に来てくれて、私に必要なものはなにか考えて、それを持ってきてくれる人たちがいる。ご飯を食べさせてくれる友人や仲間がいて、シャワーや着替えを手伝ってくれて、私にもできそうな仕事を探すのを手伝ってくれて、入浴剤やお茶やお酒やタバコやハーブを差し入れてくれる。お金を寄付してくれる。そして私は返さないーー少なくともその場では。そしてそれで構わない。

他の人のお荷物になることをスティグマとする文化があり、それがセルフケアという言葉に強化されて、障害のある人たちはしばしば、なんとか自分にできる範囲で自分の面倒を見ようとし、しばしばその結果苦しむことになります。助けを求めることへのスティグマは健常主義のスティグマで、取り払わなくてはなりません。社会的に受け入れられる「お荷物」というのはだいたい、配偶者とか家族のような身の回りの人に対するものだけです。でも、そんな小さなグループでは背負いきれないこともあるし、家族やパートナーのような人を持たない人もいます。私が生き延びようとするなら、私の味方のチームが必要です。元気なときには私にできることをしますが、もしそうできないときでも、それでも私には生きる権利があります。

鬱の症状が悪化していく中で気がついた重要なことは、私は恥だと思っていても、私のコミュニティには実際には私のお荷物を進んで持ってくれる人がたくさんいるということでした。最初のFBでの投稿の後、「あなたを支えるために私に何ができる?」と尋ねるメッセージやメールを受け取りました。この質問は私のお気に入りになり、私自身が、誰か苦しんでいる人に最初に尋ねる質問になりました。私は、罪悪感があるからとか、自分の面倒を見てくれた人に恩返ししないといけないと感じるから、この質問をするのではありません。私がそうしたいと思うから、そして、そうすると自分の気分が良くなるから、そして相手を愛しているから、こう質問するのです。時には、これは「運動」の重要な一部で、私が最も得意とする部分でもあります。

私のコミュニティの人たちが私の世話をするのも同じ理由です。そうすることに喜びを感じたり、目的を持つことができたり、様々な理由で、そうすることだけが彼女たちに可能な「運動」の仕事であったりするのです。セルフケアと言う言葉が思い出させてくれるように、自分たちのことを大事にし、生き延び、栄えることはラディカルな行為です。そして、互いのことを大事にすることも。

厳しい、自己満足の理想主義は、この世界でやっていくために他人のサポートが必要な脳や身体を持つ人にとっては十分ではありません。セルフケアに依存しすぎることは、アメリカ文化の基礎を揺るがすというよりも補強してしまいます。他の人に迷惑をかけることへのスティグマをなくし、助けを求めることを普通のことにし、健常主義に立ち向かう必要があります。コミュニティケアのモデルに移行することは、それ自体が重要な手段です。入浴をよりリラックスできるものにする方法よりも、「困っている友達に手を差し伸べる10の方法」を学ぶことに集中できるようになるでしょう。

コミュニティケアとは、他の人に迷惑をかけることを恐れて1人で困っている私たちみんなにとっての解放を意味します。生きていくために必要なサポートを受けられるということです。もしあなたの知っている人がそういう苦しみを感じているのに気がついたら、その人が自分自身でどんなことができるかを教えてあげるかわりに、「あなたを支えるために私に何ができる?」と聞こうとしてみてください。もしあなたにそれが可能なら。なぜなら、みんなで一歩進もうとするとき、自分自身の力で進む事ができる人もいれば、誰かの助けがあって初めてそれが可能になる人もいるからです。

 

 

Abeni Jones

Abeni Jones is a black trans woman, artist, writer, educator, and graphic designer living in New Orleans, LA. Follow her on Twitter or check out her website at abenijones.net.

若い女性に伝えたい3つのセックスのコツ

3 Empowering Sex Tips We Should Be Giving Young Women

若い女性に伝えたい3つのセックスのコツ

 

原文はこちら。http://everydayfeminism.com/2017/02/sex-tips-we-should-give-women/

 

2017/2/12

Suzannah Weiss

 

 

多くの女の子たちと同じように、私が最初にセックスのコツを学んだのは女性誌からでした。裸になったとき、どうやって立てば細く見えるか。どんな体位なら、自分の体のセクシーな部分をよく見せられるか。好き嫌いは別として、ペニスにどうやって触ればいいのか。セックスという言葉は大人の響きがするし、興味もわく、だけど怖くもありました。それがなぜなのか、理由を言葉にすることはできませんでした。でも、今ならわかります。セックスという言葉を聞くと、自分がモノにさせられるような気がしたのです。男性の(いつも、女性のセックスの相手は男性であるということになっています)部屋に入った途端、私の人間性はドアの外に置いていかなくてはならないような。

 

実際、10代の若者としてセックスするというのは、混乱することもたくさんありました。パートナーにとって、セクシーな恋人になりたいし、同じ人間としても思われたいけれど、どちらか一つにしかなれないのだと思っていました。両方になろうとしても、相手が逃げてしまうのです。大学生の頃、寮のパーティーで良さそうな相手を探していちゃいちゃ際どいこともしながら楽しんでいると、その彼が、彼の友人の目の前で、私が話そうとしているのに、後ろに立って、バックで挿れるフリをしてきたのです。なんだか、「お前も一人前に対等に楽しんでると思ってるかもしれないから思い出させてやるけど、絶対に対等なんかじゃないからな」と言われているようでした。まるで、私が状況を楽しんでいることが、彼の楽しみを奪うかのような。まるで、彼は私がセックスするのに納得すれば勝ちのゲームでもしていて、私はゲームのプレーヤーではないような。彼も知っていたのでしょう。セックスにおける女性の役割は、男性が欲しいものを与えるのを拒否するか、降伏して与えるかどちらかでしかなく、女性が自分自身から何かを求めるということはありえないということになっているということを。(当然、そこではLGBTQIA+の人たちは存在しないことになっています。)

 

私がそれを学んだのは雑誌からだけではありません。明示的もしくは暗示的にでも、セックスの相手を「ビッチ」とか「売女」とかいうミュージシャン。男性の視聴者に裸の女性を見せるためだけにやっているようなテレビ番組。レイプをただの「やんちゃ」だと扱う男性たち。そんなものたちのおかげで、大学時代もその後も、そんなセックスについての考えとそこでの女性の役割について思い知らされました。だから、ここで紹介するのは私が受け取ったもっと健全なメッセージで、もっと早くに受け取っておきたかったと思うものです。

 

  1. あなたが「やっても平気」と思うことではなくて、あなたが望むことをすること。

 

欲望は、周りの大人や同年代の人たちから受け取ったセックスについてのレッスンには登場しないものでした。少なくとも、男性以外の人の欲望はいつも不在でした。男性の欲望とやらについてはよく学びました。男性の欲望はコントロールができなくて、それを満たすために彼らは私を使うのだと。彼らの欲望が満たされるかどうかを決める「強い」立場に私はいるのだと(それも、彼が「良い人」で私をレイプしようとしない場合、だけですが)。

 

こういう広く信じられている考え方は、男女の二分法にあてはまらない人を消すだけでなく、女性は同意不可能な存在ということにしてしまいます。自分が望まないものに対して同意なんてできないのですから。だから、私の欲望は尊重されるべきなのだと学ぶまで、セックスは、そもそも定義として、合意に基づかないものだと感じていました。そんなものを怖がるのも無理はなかったのです。

 

私が大学1年生の時、セックスについてのトークを聞きに行きました。それまで参加したことのあるセックスについてのどんなトークとも違って、そのトークでは、女性は被害者に還元されていませんでした。そのときのスピーカーの人が言いました。「あなたが望むことをするんです。単にあなたがやっても平気と思うことではなく。」それまで、私がセックスで得られるものは一番よくて「私が問題ないと思えること」だと思っていました。男の子が何かしたいことがあって、自分もそれで問題ないとおもうなら、それをその男の子にさせてあげないのは意地が悪いことだと思っていたのです。でも、あのときのスピーカーの人がそういったように、それは不平等な交換だし、そこでの合意というのは何なのか曖昧になります。そうではなく、そのスピーカーの彼は、「自分が積極的にやりたい!と思えないなら、ノーと言う」のはどうかと提案しました。そして、「途中で気が変わったっていいんです」と。

 

何年も経った後、添い寝パーティーでまた同じ教訓を学びました。「『それ、めっちゃやりたい!』というわけじゃないなら、『ノー』でいいんだ。」「めっちゃやりたい!」と相手が言う権利を認めることで、そうではないならノーと言っていいと伝えることができます。そして、ノーという権利を認めることで、もっと安心して「やりたい!」と言うことができるようになるのです。

 

  1. 考えていることを伝える。そして、相手に何を考えているのか尋ねる。

 

女性誌は、ベッドでどんなことを言えばセクシーかは教えてくれますが、自分がどう感じているかを伝える方法についてはほとんど教えてくれません。そして、どうすれば自分のパートナーが感じていることを知ることができるのかも、教えてくれません。ベッドで声に出すことは、全て演技のためということになっています。寝室でのコミュニケーションは、本当はその真逆であるべきなのです。つまり、あなたが本当に思っていることを伝えること。私は、「セックスがしたい」とか「もっとしたい」、もしくは「もっと別のセックスがしたい」と言ってもいいんだということを知りませんでした。今やっていることは自分にとって何にも良くないと言ってもいいんだと。痛いとか、無理をさせられている気がすると伝えても良いのだと。だって、そういうことを言ったって「彼がその気になる」保障なんてないらしいのですから。

 

でも、あなたが考えていることを伝えたっていいし、むしろそれは必須であるべきなのです。とくに、伝えることを我慢して、居心地が悪くなったり満足できなくなったりするならば。これは同時に、あなたのパートナーが何を考えているかを知ることもまた重要であるということです。特に、相手が何を望んでいるのかはっきりわからないなら。性的暴行についての議論をするとき、女性はしばしば潜在的な被害者かサバイバーのどちらかであるという位置づけをされますが、私たち自身も相手が嫌がることをやってしまう可能性は十分にあるのです。女性たちにパートナーのセックスを褒めるように教えるだけでなく、「これをしたい?気持ちいい?何がしたい?これは好き?」というのも、みんなが普通に尋ねることに加えるべきです。

 

これは、セックスをより良いものにするだけでなく、合意をとりつけながら事をすすめるという観点からもとても大事です。

 

そして、これは「雰囲気を壊す」ことではありません。相手に話しかけることが楽しみの減少に繋がるなんて、そんな行為が他にありますか?

 

  1. 相手と同じぐらい自分も楽しめるようにする(そしてその逆も。)

 

このセクションのタイトルの後半を()の中に入れたのは、女性はこのことをすでによく知っているからです。女性は、「少なくとも」自分が楽しんでいる以上に、相手が楽しめるようにするのが仕事なのだと教えられます。ナンパについての大学生を対象とした調査で、ある女性がいいました。「誰であれ、相手が絶対に抜けるようにします。」他の女性も、自分が快楽を受け取ることについてこういいました。「居心地が悪いんです、たぶん。わからない。なんとなく罪悪感さえ感じて。相手の男の子に、無理やり嫌なことをさせているような気がして。」

 

だから、大学時代の一晩限りのセックスで、男性の方が女性よりもオーラルセックスを受けることが多く、10代の男女ともに、女性に対してオーラルセックスをすることはハードルが高いと思っていても、無理はありません。私はいつも、相手と同じぐらい自分も大事な存在であるということを知っていると「思っていました」。自分も相手も両方が、同じ程度楽しめるようにするべきというのは当然のように思えます。

 

でも、2人目の学生が言ったように、私も自分がオーガズムを得られると期待したことはありませんでした。

 

オーガズムを得られないので、たぶん私の体は感じにくいんだろうと思ったりもしましたが、自分でしているときはオーガズムを得ることも難しくないのです。

 

私たちはこう教えられてきました。「女性に快楽を与えることは難しいこと。私たちの体はややこしい。男が電子レンジなら、女はオーブンみたいなもの。」(ここでも、あたかもあらゆる女性はシスジェンダーであるかのように前提されていて、性別はつまり性器の形の話ということになっています。)セックスからあまり快感を得られないとき、私たちは「あーあ、私が女の体を持ってて、ややこしいから」と思い込みます。でも、それは違います。いろんな原因が考えられます。たとえば、不安があって集中できないとか、あなたとあなたのパートナーの知識が足りないとか、相手にそもそも努力するつもりがないとか。でもそれは、あなたが女性だからしょうがないこと、ではありません。

 

私たちは、残念な性生活にいつまでも耐えるのをやめて、自分が望むものを求める権利があります。

 

自分の欲望を追求してはいけないという考えは、寝室の外でもあらゆる形で私たちの足を引っ張ります。あらゆる場所で、私たちの快楽への権利を取り戻しましょう。

 

***

 

これらのセックスのコツはこうまとめることができます。「性的欲望を持つこと、表現すること、相手にそれを尊重するように求めるのは当然のこと。」女性が性的欲望を持っている、という事実を受け入れられない人があまりにも多くていつも驚かされます。オナニーやポルノなど、私が性的な存在であることを少しでもにおわすようなことを言うと、こんな反応が返ってきます。

・私は男に媚びへつらおうとしている。なぜなら、男性にとって私は性的なものでしかないから。

・私が自分の快楽を追求することに対して激怒する。

・私の性欲が過剰でやけになっている。

女性が性的であるということに人々が否定的な反応を示す時、その人達は、女性が人間であるということを否定しているのです。そして、女性に「性的な欲望を持つな、でもセクシーであれ」と教えるとき、私たちは彼女たちの人間性を否定しているのです。当然、女性は(誰でも)、望むならセクシーになれます。でも彼女たちは、彼女たちがセクシーであろうとなかろうと関係なく、性的な欲望を持つ権利があります。

 

いつか、女性が性的欲望を持つのは普通のことなのだと理解される日が来ると良いと思います。それはつまり、彼女がそれを表現することを、周りの人も尊重するということです。私は、「女というのはこういうもので、男というのはああいうもの」といった形でのセックスの考え方がなくなって、あらゆるジェンダーや性的指向の人たちの性的欲望が大事に尊重されるようになれば良いと思います。すべての人にこのオルタナティヴの「セックスのコツ」を伝えることで、前に進んで行きたいのです。

 

Suzannah Weiss is a Contributing Writer for Everyday Feminism. She is a New York-based writer whose work has appeared in The Washington Post, Salon, Seventeen, Buzzfeed, The Huffington Post, Bustle, and more. She holds degrees in Gender and Sexuality Studies, Modern Culture and Media, and Cognitive Neuroscience from Brown University. You can follow her on Twitter @suzannahweiss. Read her articles here.

 

強情で空気を読まない人

強情で空気を読まない人

A Willful Killjoy

 

2017/6/5

Katie Wall

原文はこちら。http://msmagazine.com/blog/2017/06/05/a-willful-killjoy/

 

サラ・アーメッドの新刊、Living a Feminist Life[フェミニストとして生きる]は、フェミニストになったばかりの人からベテランまで、全ての女性のための本です。フェミニスト理論、クィア理論、批判的人種理論、ポストコロニアリズムなどの研究領域で著名なアーメッドの、有色のレズビアンとしての自分の個人的な経験や、人種主義、クィア理論、障害といった話題についての本書での議論は、インターセクショナリティに貫かれています。

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トランプの時代に有色人種の女性とフェムに伝えたい10のこと

10 Affirmations for Women of Color & Femmes in the Era of Agent Orange

トランプの時代に有色人種の「女性」に伝えたい10のこと

 

2017/5/2

Nazly Sobhi Damasio

 

原文はこちら。 https://wearyourvoicemag.com/identities/affirmations-women-color-femmes

 

有色人種で、女性/女性としてのジェンダーを身にまとう人(フェム)にとっては、トランプ政権が始まる前から状況は良いものではなかったということは皆知っていますが、それでも、トランプが大統領職についたことは白人至上主義を正当化し、憎悪を持った人たちが暴力を実行に移すハードルを低くしてしまったように感じます。

トランプ政権が始まってたった100日の間に、黒人女性、有色人種の女性、黒人のフェム、有色のフェムの人たちが、トランプや他の誰も私たちを攻撃するのを許さないと示すため、素晴らしく、力強い抵抗をしてきました。間違いなく私たちが知っている中で最も暴力に満ちた時代を生き延びるのを助けるため、私たちの日常に応用可能な10の言葉を送ります。

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コール・アウト文化の中毒性はどこからくるのか

What Makes Call-Out Culture So Toxic

コール・アウト文化の中毒性はどこからくるのか

 

2015/3/4

Asam Ahmad

 

原文はこちら。 http://www.filmsforaction.org/articles/a-note-on-callout-culture/

 

コール・アウト文化とは、革新派、ラディカル、活動家、コミュニティ・オーガナイザーなどの間にある、他人の抑圧的な振る舞いや言語の例やパターンを公に名指しで批判する傾向のことを言います。性差別的、人種主義的、健常主義的などなどの言動に対して、コール・アウト(批判)されることになります。コール・アウトは公に行われる傾向があり、ゆえにある種の机上の空論的な、そしてアカデミックなアクティビズムのあり方を生み出すことになります。つまり、コール・アウトそれ自体が目的化するのです。

 

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職場で黒人女性が「女の子」と呼ばれることについて

Black Women On Being Called 'Girl' In The Workplace

職場で黒人女性が「女の子」と呼ばれることについて

 

2017/5/15

Nadege Green

 

原文はこちら。 http://wlrn.org/post/black-women-being-called-girl-workplace

 

フロリダ州上院議員のFrank Artilesは、同じく議員であるAudrey Gibsonに対し、nワードを使った上で、彼女を「ビッチ」と呼んだことをマイアミ・ヘラルド誌に暴露され、辞任しました。彼は、黒人女性であるGibsonのことを「女の子」とも行っていました。彼は自分の言葉と物言いについて謝罪しました。

 

「Frank Artilesの一件についての報道を見ると、『女の子』という言葉はあまり人の関心を引いていないように思います」と、マイアミのジェンダーと社会正義のために活動しているLutze Seguは言う。「誰が『女の子』という言葉を使うか。その問題についての歴史的な文脈が理解されていないようです。」

 

職場で女性はしばしば性差別的な言葉を浴びせられる。黒人女性にとって、ジェンダーと人種の差別は重なり合い、たとえば「女の子」と呼ばれるといった経験として、一つのものとして経験される。奴隷制の時代から人種隔離の時代にかけて、黒人の成人男性は「男の子」、黒人の成人女性は「女の子」と呼ばれてきた。これは、黒人は常に未熟で、成人になっても、相応の扱いを受けるには値しないということを刷り込むための言葉遣いだ。

 

マイアミ・ガーデンズ市の法務官であるLoreal Arscottは「黒人男性が『男の子、なんていうのは白人の人種差別的な言葉だ』と言うのを聞いたことはあるでしょう。女性については、それが十分に言われていないようです。」と語る。Arscottは、自分のキャリアにおいて、プロフェッショナルとして振る舞っている場で何度も「女の子」「かわいこちゃん」などと呼ばれた経験があるという。ときには、彼女は訂正する。「Arscottさん、です。」しかし、彼女は毎回同じように闘わないといけないことに疲れて、そのまま流すこともあるという。

 

大学のメディア・リレーションとコミュニケーション部門に勤めるRobyn Hankersonは、ミーテジングに参加してメモを取っている時、年長の白人男性の同僚に「そこの女の子、ちゃんとわかってる?」と聞かれたという。「一瞬凍りついて、言いました。『失礼ですが、私は女の子ではありません。』と。」Hankersonは語る。「その場で、私のジェンダーはまったく、これっぽっちも関係がなかったからです。」

 

Hankersonによれば、そういう言葉づかいをするのは男性に限らない。「女の子」と言う言葉を使うほうがおしゃれだったり、褒め言葉でさえあると思っている人がいる。たとえば、Hankersonは、黒人ではない同僚が、彼女の服装を褒めようとして、「君(girl)、今日の服、すっごくいいね!」と言った次の瞬間に、黒人ではない人に対しては「今日のドレス、とても似合っていますよ」と言うとか。Hankersonは、黒人女性である彼女に近づこうとして、黒人女性たちが自分たちの間で、個人的な場で使っているだろう言葉を、誇張して真似する態度を取る人をよく見るという。「そういうのは、差別的だと思います。」Hankersonは言う。「相手には差別の意図はおそらくないのだと自分に言い聞かせないといけなくなります。」

 

ミシガン州立大学の心理学の教授であるNiCole Buchananは、職場において黒人であると同時に女性であることの経験について研究している。Buchananは、こういった経験はマイクロアグレッション(些細ではあるが差別的な行動)だと言えるという。「マイクロアグレッションは、それを行う人が無意識のうちに持っているバイアスを反映しています。」そして、差別をする意図がなかったとしても、それが有害ではないということにはならないと付け加える。「マイクロアグレッションに直面した時、それを受けた人は、相手には悪意はなかっただろうと自分に言い聞かせることで、気を落ち着けようとします。それは、マイクロアグレッションにどう対応しなければならないか考える側にとって、非常に大きな心理的なコストです。」

 

数ヶ月前、Seguはマイアミでファンドレイジングのイベントに参加した。彼女はその場で唯一の黒人だった。食事の列に並んでいると、ある男性が彼女の方を振り向いて言ったという。「そこの君(girl)、はやく食べよう!」Seguは言う。「その場にたった一人の黒人という立場で、女の子扱いされ、しかもたぶん彼はビヨンセの歌詞を意識してたんだろうなと思うと…。たった一度のやりとりの中にあまりに多くのことが起こって、手におえません。」多様性と包摂について人を訓練したり、ワークショップを主催したりしているSeguのような人にとっても、その瞬間にどう応答するかというのは難しい問題だ。「凍りついてしまうでしょう。あなたの言葉に問題があるというのを、どこから説明すればいいのか?考えるのもいやになることです。」

 

ボカラトン市で不動産と信託プラニングを専門とする法律家のJorja Williamsは、職場でもっと議論されるべき問題があるという。「私は、人種主義と性差別の重なりによって苦しんできました。私の担当地域では、私はまだ経験が浅く、黒人で女性であり、性差別と人種主義の間の境界は曖昧になります。」Williamsはサウスパームビーチのバーアソシエーションの多様性と包摂についての委員会に参加し、職場でマイクロアグレッションが繰り返しなされると、その人の生産性に影響し、最終的には職場を離れるという選択をすることに繋がると語った。「人種とジェンダーは、話しにくい話題かもしれません。」それでも、そのような話題について議論することは必要だと、Williamsは言う。

 

人種とジェンダーについての議論をするのを助けてほしいと呼ばれることの多いSeguも、たとえば職場で「女の子」扱いされることの意味を解きほぐすなど、深く、丁寧なアプローチをすることは難しいことかもしれないと語る。「たった3-4時間のトレーニングで、人種主義を消し去ってほしいと依頼してくるような人たちに対する多様性と包摂のためのトレーニングで、どうその話題を持ち出せるでしょうか。」Seguは、職場で「女の子」と呼ばれたことのある黒人女性たちは、バランスをとることを迫られるという。「これは精神衛生の問題でもあります。一日中、あらゆるマイクロアグレッションやあからさまな差別を全て指摘するというのは不可能です。私だって、ちゃんと家に帰れるだけの力を残しておきたい。全てに応対していたら、帰る頃には玄関までたどり着けないような状態になってしまいます。」