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血のつながり:クィアな血液、献血、市民権

Blood Ties: Queer Blood, Donations, and Citizenship
血のつながり:クィアな血液、献血、市民権

原文はこちら。 http://notchesblog.com/2014/09/23/blood-ties-queer-blood-donations-and-citizenship/

2014/9/23
T.J. Tallie

クィアの血液はストレートの血液よりもアメリカ的ではないのだろうか?アメリカ合衆国では、1977年以降、一度でも男性とセックスをしたことがある男性 は献血ができないことになっている。ロサンゼルスの映画監督で活動家のRyan James Yezakは2014年7月11日、National Gay Blood Drive[全米ゲイ献血運動]と銘打って全米の60都市で献血活動を行い、クィアな男性をひとくくりにして献血を禁止することに抗議した。このイベント のテーマである”Not a Second Class Citizens”[二級市民ではない]は、ソーシャルメディアを通じて広まり、献血禁止の差別的な性格について人々の意識を高めた。

献血禁止にまつわるイメージや言説は、性が(過去の、そして現在まで続く人種の歴史とともに)アメリカの市民権への要求を媒介するということを示してい る。排除された性的集団を想像上の、また字義どおりの身体政治に組み込むための闘争は、人種的少数派の市民権を求める運動の歴史を思い起こさせる。表面上 はカラーブラインドだが、一目見れば、The Gay Blood Drive運動が健常で、ほぼ白人でシスジェンダーの男性身体を前面に出しながら、アメリカ国旗をふり、彼らが市民権に「ふさわしい」のに、排除されてい ると主張しているということがわかる。見た目から人種を判断することは問題含みであるが、それでもソーシャルメディア上 の#SecondClassCitizensのページでは非白人やシスではないメンバーの姿が見えず、そのような人々が運動のイメージとして前面に出てこ ないというのを指摘するのは重要だ。クィアな市民の包摂のために人種や身体の差異の両方を消すことを、理論家David Engは「クィア・リベラリズム」と呼んで論じた。クィア・リベラルのプロジェクトは、抑圧的な構造に抵抗することなく、むしろそれに包摂されることを目 指す。SecondClassCitizensというハッシュタグで出てくるイメージは、クィア男性が他のアメリカ人に血液を与えるにふさわしい存在だと主張しているが、ここで選択されているイメージの種類は、いかに他の歴史的・社会的要因がアメリカの市民権からの排除に利用されるのかということを見えなくさせる。

SecondClassCitizensというテーマは、社会的に受け入れられるために愛国的なイメージを用いるゲイアクティヴィズムの長い伝統の延長につらなるものだ。20世紀のクィア運動はアメリカのジェン ダーと性の規範を批判してきたが、Simon Hallが論じたように、彼らはしばしば自分たちが愛国的な集団であると主張することで、論敵と戦ってきた。クィア運動における愛国主義的アピールの研究 の中で、Hallは、とりわけ1960-70年代の文化戦争の時代に、国の道徳規範への危険因子とみなされたゲイやレズビアンが、自分たちがアメリカ人で あることを強調してアピールしたことを明らかにしている。最も興味深い例として、Hallは、Anita Bryantが愛国的な歌などを用い、国家を守ると主張しながら主導したSave Our Childrenというアンチ・ゲイ運動に対抗するために、クィアの活動家たちも愛国的な歌、とりわけ「美しきアメリカ」を用いて抵抗した事例を分析して いる。

ストーンウォール暴動以前の時代、ホモファイル運動は、ゲイとレズビアンを完全な市民としてアメリカの自由の約束に包摂することを求め、毎年7月4日に行 進した(Annual Reminder)という。このような愛国的な呼びかけは、アメリカにおける人種に基づく排除の歴史の上に形作られ、また同時代の公民権運動にも影響を受けていると歴史家のKevin Mumfordはいう。アメリカという国への包摂を公に訴えるために、クィア運動家たちは自分たちは「普通の」人々であると見せる必要があり、それはしば しば白人性を利用することでなされてきた。Allan Bérubéが強調するように、[白人の]ゲイ男性とレズビアン女性は、自分たちの白人性を利用して自分たちも同じアメリカ人であると主張しつつも、肌の 色が彼らに与える文化的な権力や特権については考えてこなかった。しかし、7月4日の行進(Annual Reminder)は疑いようもなく、公民権運動を真似ている。1963年のワシントン大行進は「アメリカという国のあり得るべき姿」を拡張することで黒 人の社会的包摂を主張し、ゲイ・レズビアンによる7月4日の行進はこの手法を公民権運動から借りたのである。

 

SecondClassCitizensのハッシュタグ付きで投稿されているイメージは、アメリカという国への帰属意識を明確にし、アメリカ人であるという共通項を通じてストレートの人々とつながり、またはクィアの人々もまたこの国の一部であるということを再確認しようとする、パワフルなものである。血液を与えるという行為—そして、それをしたいという一定の集団にそれを禁ずることーはアメリカ市民権という考えと強い関わり合いがある。献血は広い意味で、ある集団に帰属する人々をつなげる実践とも言える。ゆえに、Jeffrey Bennettが論じるように、献血禁止はクィア男性を、献血という愛国的行為が不可能で、この共同体に参加できない人々であるというメッセージを発して いることになる。実際、Yezakも献血ができないと言われた時、「自分が違う種として扱われているような気分」だったとLos Angeles Timesに語っている。Gay Blood Driveは、クィア男性が自分たちもアメリカ市民であるという主張に基づき、献血禁止に抗議する方法を提供した。 Gay Blood Driveには、クィア男性のドナーだけでなく、献血を禁止されていない「アライ」が参加していた。(1977年以降、男性とセックスしていない男性、 1977年以降、献血禁止とされる男性とセックスをしていない女性。)彼らのような「アライ」は、「XXのかわりに献血します」というステッカーを自分が 献血した血液に貼る。そのようにして、クィア男性は献血会場で自分の「代わりの」血液を提供することで、自分も市民であるという感覚を取り戻すことができ るのだ。

アトランタでも、7月11日にGay Blood Driveが行われた。GA Voiceといった地元のゲイ向けニュースウェブサイトは律儀にイベントを報じ、ゲイ男性に参加するよう呼びかけた。しかし、ニュースサイトがこのニュー ス用に選んだ写真に写った人々は人種的に偏っており、魅力的な白人男性が、彼らが#二級市民であるという問題があることを理解して欲しいと訴えるイメージ だった。イベントのためのこのようなイメージの選択は、人種、セクシュアリティ、歴史の交差について示唆を与えてくれる。アトランタはアメリカ合衆国において、ゲイの黒人男性にとっての(最大の)中心地であり、アトランタの黒人のクィアコミュニティの中ではHIV感染について広く議論がされてきた。黒人男性は、他の集団と行為やリスクにおいて差異がないにもかかわらず、白人男性より6倍HIVに感染しやすいと最近の調査で言われている。このようなリスクは、長きにわたるヘルスケアと感染予防へのアクセスにおける人種的不平等、また、同じ都市の中にあってさえも人種によって異なるクィアな人々の生き方を作り上げてきた、歴史的な人種分離の構造によってもたらされている。

実際、GA VoiceのGay Blood Driveについての報道は、「ポスト人種」の時代の輪郭と、クィア男性が真っ当な市民として包摂を求める「現在」を構築するときの過去の重さについて考える良い事例である。Chandan Reddyは、現代の運動において性の平等についての主張は、人種、ジェンダー、資本の不平等を作り上げてきた20世紀の暴力の歴史を無視するような傾向 を見せると論じる。Gay Blood Driveは抵抗と市民権の要求のための重要な運動でありつつも、もう一つの長きにわたる排除の歴史の中に埋め込まれてもいるのだ。献血という問題だけに フォーカスして制度的な差別に抵抗しようとすると、人種隔離の歴史や医療における人種差別(たとえば、悪名高いタスキーギ実験)を放置してしまうことにな る。また、ゲイやレズビアンが、性だけでなく、人種やジェンダー・アイデンティティ、もしくは健常性など、複数の要因で同時に「二級市民」として構築される方法を根本的に問うことも難しくなる。「美しきアメリカ」を歌いながら抗議した運動家の先人たち同様、白人性と愛国主義に訴える運動は、実際には、人を排除し続ける国家に自分たちは包摂されたいという態度であって、不平等の構造を根本的に問うているわけではない。性とともに、人種についての歴史的な差別の影響を理解し、取り組む運動こそ、様々なアイデンティティをまたいだ形で、市民権における排除への意義深い抵抗を生み出すだろう。