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聖テレサと独身女性

St. Teresa and the Single Ladies

聖テレサと独身女性

 

Jessa Crispin
2016/1/9

原文はこちら。 http://www.nytimes.com/2016/01/10/opinion/sunday/st-teresa-and-the-single-ladies.html?smid=tw-nytopinion&smtyp=cur

スペイン、アヴィラにて。私は妻を欲しがっている男と恋に落ちるという失敗をしてしまった。正確には、彼は「私を」妻にしたかったわけではなかった。私を見て、私が良い奥さんになれると思う男はいない。私は悪態をつきすぎる。それでも、私は彼に会うためにベルリンまで行って、彼が結婚と家族についての将来の計画について語るのを聞き、私はそういう計画に乗れないと思った。だから逃げた。自分でもよくわからない衝動に突き動かされて、大聖堂の後ろの方にうず くまった。

私はカトリック教徒ではないけれど、女性の聖人に惹かれるところがある。どこか、彼女たちを尊敬している。おそらくそれは、彼女たちが結婚を避け続けた時間の長さによるのだと思う。聖カタリナは、母に彼女の美しい髪が求婚者をおびき寄せてしまうと言われ、髪をばっさりと切った。聖ルチアは、求婚者に可愛らしい目をしていると言われ、両目をえぐりだして彼にプレゼントした。(「なんなの?」叫ぶ求婚者にきっと彼女はこう問うただろう「これが好きだって言ったくせに。」)そしてキエフの聖オルガ。彼女の祭日は私の誕生日だ。聖オルガのところに、自分たちのところの王子と結婚するようにと使者がやってきた時、彼女は使者たちを生き埋めにした。

また別の男とのベルリン訪問が大惨事に終わった後、私はスペインのアヴィラに行くための飛行機に乗った。16世紀の神秘的な修道女で哲学者の聖テレサの巡礼のために。アヴィラの町は彼女の詩を飾り、彼女の500回目の誕生日を一年をかけて祝福していた。彼女は独身を貫くために自分の身体の一部を切り取ることも、男を殺す必要もなかった。彼女の家族に抗う必要はあったけれど。彼女が人生において得たいと思っていたのも、愛だった。でも彼女は、彼女の母親が妊娠に次ぐ妊娠のためにゆっくりと死に近づいており、彼女がそれを妻としての義務だと思っているのを見ていた。

テレサは、単なる身体としてしか見られず、夫と子供のために自分を犠牲にして子どもを産むのは嫌だった。身体であることと頭脳であることのどちらかを選べと言われていたら、彼女は頭脳を選んでいただろう。だから彼女は修道女になったーそれが女性が哲学者になる唯一の方法だった。

私は家ではなく、アヴィラにいる。私の妹が私の家にいるから。私の妹は、経済的にも感情的にも夫を15年支え、夢も慰めも欲望も犠牲にした後、突然彼女には何も残っていないことに気がついた。彼女が残りの人生でどんなことをしたいのかという考えさえも。彼のもとを去った彼女には家もなかった。だから私は彼女のために私の家のドアを開けた。

私の家族はみんなこんな感じで、おそらく女性はきっとこんな感じだろう。夫のために全てを犠牲にする。家の中の女性たちは、妻、専業主婦、男性と同じ給料は絶対にもらえないパートさんになるために、家を、友人を、キャリアを、学位を、諦めてきた。それが、私の女性の親戚たちの選択だということも私は理解している。でも、自分が愛するものを犠牲にするということを、本当に選ぶことなんて稀だ。どちらかというと、ゆっくりと侵食されていくといったほうが適切だ。何か一つ小さなことを諦めると、また一つ、もう一つ、諦めることが簡単になっていく。そして結局、男はこういったものたちを犠牲にするよう女性に頼んだりはしないのだーもしそんなことを頼んだりしたら、それらが諦めるには惜しいものであると認めることになるから。

そういうわけで私の妹は、かつての自分の亡霊のように私の予備の寝室に取り憑いていて、私はここ、アヴィラにいる。

女性の書き手をここまで大々的に取り上げる街にいられることは稀だし、素晴らしいことだ。たくさんの聖テレサの像や彫刻が街中にあり、彼女の膝もとには毎日みずみずしい薔薇が飾られる。聖テレサの像の多くは羽ペンを握っている。彼女の顔を模した焼きたてのクッキーが、ベーカリーの窓に飾られている。

街の全てが、彼女にちなんで名付けられている。プラザ、通り、学校、教会、カフェ、駐車場。

しかし生前、彼女は教会の権威に容易に認められたわけではなかった。彼女は、教会の金持ちを批判すれば、異端として火あぶりにされてしまう時代に生きていた。アヴィラの街も例外でなく、いまはテレサにちなんで改名された街の広場でそういうことが起きていた。

彼女の著書「人生」のせいで、彼女は彼女の教えが当時の厳格な教えにかなうものであるか諮問する宗教裁判にかけられた。彼女の著作の多くはラディカルだっ たが、彼女は裁判官たちに自分には害がないと説得した。「でもなんだと言うのでしょう、私はただの惨めな女です。」彼女は改革を推進し、彼女の女子修道院では、経験、清貧、慈悲を強調した。彼女の著作はもともと聖職者や修道女たち向けだったが、彼女の死後、出版され広く読まれた。

彼女は多くの著作を残している。女性の役割について、慈悲について、芸術の力について、暗い時代を生きることについて。彼女は哲学者だが、今日、哲学の授業で同じく哲学者のスピノザ、デカルト、アクィナス、カントなどと並べられることはない。

教会はその莫大な富を見せびらかすのではなく、質素だったころに戻るべきだと提案した聖テレサの身体は、死後バラバラにされ、彼女の身体の部位は金と宝石に包まれている。ここアヴィラにある彼女の指の遺骸には、エメラルドの指輪がはめられており、彼女が自分を鞭打つのに使ったロープは金で覆われている。彼女は生涯をかけて頭脳であろうとしたが、彼女の遺骨を使って奇蹟を行う教会によって、再び、単なる身体に戻された。

聖テレサの著作で私が最も関心を持っているのは、男性と共にある生の外側での、女性の人生の創出についてのものだ。彼女がスペイン中に女子修道会を建てた ことについて記した「彼女の基礎についての本」での重要なポイントは、そのような人生が重要であるということだった。聖テレサは彼女より若い修道女たちに呆れ、彼女たちは「神が彼女たちに与えた恵み…神が彼女たちにとって死、魂の死である男性への従属から彼女たちを解放したことを理解していない」 と書いている。

聖テレサの時代から500年後、現在でも女性たちが、選択の結果であれ不運であれ、いかに男性と番う以外の方法で生きていくかというモデルはほとんどない。独身女性についてのテレビ番組や映画を最後に見たのがいつだったか思い出せないし、あったとしてもそれは解決されるべき問題であったり、彼女がいかに深く傷ついているかの表現でしかなかった。より多くの女性が、より長い時間独身で過ごすようになってもこうなのだ。

私はもう11年独身として過ごしてきたので、独身女性に対して言われる侮蔑や中傷、説教くさい言葉はたいてい耳にしてきた。「きっとあなたに合う人がいるはず」と、またデートがうまくいかなかった時に、既婚の友人がイライラしながら言ってきた。つまり、この宇宙のどこかに私のそばからたった数日で逃げていかない男の人がいると。

なぜ女性が自分一人で人生を生きていくことを選ぶのかを理解してもらうのは難しい。私たちはもはや頭脳であるか身体であるかを選ばなくてもいいけれど、私は、誰かとカップルになったとき、ずっと持っていたい何か大事なものが失われるような気がしてならないのだ。違う友達に、最も社会に積極的に関わり、社会の中で弱者とされる人々のために働いたのは修道女たちだと言ったことがある。その友達は既婚だったが、彼女は、修道女たちは単にロマンティックな愛と子どもがいないことを、社会的な問題に関わることで埋め合わせていただけなのではないのと意地悪に聞いた。ええ、そうかもね。私は言った。「でも私たちはみん な叶えられない欲求をもっているし、それを埋め合わせようとするものでしょう。」

毎朝、私はアヴィラで宿泊している小さなホテルの部屋から、台座の上からゲートを見下ろす聖テレサ像のあるところまで歩く。街は小さく、瞑想するか、コーヒーとパンをもってひなたぼっこする以外にすることはあまりない。日中には、二人組の修道女たちがジェラートを食べておしゃべりして去っていく。

以前、好きな人と旅行をしたことがあった。ディナーに一緒に行く人がいたから、見知らぬ人と話すことはあまりなかった。地図を読んでくれる人がいたから、標識のない通りをふらりと歩いてみることもしなかった。心地よく、快適だけど、同時に閉じ込められているような感じ。

自分の人生を自分で組み立てている多くの女性と同じく、私も寂しさを知っている。でも、寂しさと傷つきやすさは道具にもなる。もしそのプレッシャーに耐えられれば。寂しさは、誰かその寂しさを癒してくれる人を見つけようとして部屋を眺めるようにすることで、自分の周りに意識を向けさせてくれるだけでなく、あなたの共感を呼び覚ま す。ルーマニアの政治活動家である私の友達はこう書いた。「恐ろしいものはたくさんあるけれど、寂しさは恐ろしくない。実際、多くの人々がただ孤独である ことを避けるためだけに、どれだけ長い時間をかけるかというのを見るのは本当に憂鬱。」

もう2週間ほどアヴィラの街を歩いて、私にカヴァと羊のチーズを売ってくれた女性との片言のスペイン語会話を除けば、私は、多くは女性の、私が世界中で出会った友達とオンラインで話しているだけだ。そして、もし私が愛する男性と一緒に旅行していたら、こんなにもたくさんの友人と出会えていただろうか、と思うのだ。でも、そんな男がいたとしたら、そもそもアヴィラに来ないといけないなんて思いもしなかったのだろうけれど…。

聖テレサの詩は、意味を必死で探す女性についての詩だ。彼女の犠牲がなんらかの意味を持って欲しいとおもっている。「あなたは私に何を求める?」と詩は反復する。その問いが私に投げかけられているような、そんな気がするのだ。

私は冷えた教会の外に出て、聖テレサのために薔薇を買い、現実世界に戻った。


Jessa Crispin is the author of the book “The Dead Ladies Project: Exiles, Ex-Pats and Ex-Countries,” and the editor in chief of Bookslut.
A version of this op-ed appears in print on January 10, 2016, on page SR6 of the New York edition with the headline: St. Teresa and Single Ladies. Today's Paper|Subscribe