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feminism matters

英語(とたまに韓国語)のクィア・フェミニズム系記事の翻訳の貯蔵庫。

私の有名な友だち

クィア/LGBT

My Famous Friend

私の有名な友だち

 

Sarah Van Arsdale

2016年1月

 

原文はこちら。http://www.bookslut.com/features/2016_01_021354.php

 

最近、古い友人の名前を聞くことが恐ろしくなる時がある。なんども頻繁にその名前が聞こえてくる。もしくは格調高い雑誌や新聞の紙面で見つけたり、直接私の家まで届けられる手紙でその名前を読んだり。

 

パブリック・シアターからのお知らせやラジオ、ときには私が教えている学校のエレベーターの小さなテレビから、彼女の名前を聞いたり、読んだりした。彼女がマッカーサー財団の「ジーニアス賞」を受賞したときのことだ。

 

彼女が有名になるにつれ、彼女の名前を聞くたび、羨ましさに心がズキズキして、狭い部屋に閉じ込められているように感じ、彼女が彼女の作品によって得た名声を私は決して得ることはないだろうということに失望し、混乱した。そんな自分が嫌だった。ライターと芸術家としての自分が承認されることに飢えている。羨ましがったって彼女から遠ざかるばかりだと知っているけれど、どうしようもない。ラジオの電源を切った。

 

「私の作品」と言うことにさえ自意識過剰になって、心の中で「私の作品?なにそれ?」と嘲ったりした。私の3つの、そしてもうすぐ4作目も出るフィクション作品たち。私の小さな可愛い水彩画たち。私が作った愛しいアニメフィルム作品たち。私の作品それ自体が取るに足らない、アマチュアなものというわけではないけれど、私が得てきた承認なんて彼女の隣りでは小さく見えてしまう。彼女の名前を誰かが言及するのを聞くたび、私の名前は微かに、情けなく響く。

 

芸術家やライターならみな、ともに賞や出版を目指して競っていた友達が受賞したら、たとえどんなにその友人が才能あふれる愛すべき人であったとしても、羨望や失望を感じずにはいられないだろう。でもこの場合は違っていて、最初、私はなぜこんなにも彼女が羨ましいのかよくわからなかったのだ。

 

ライターで芸術家である他の友人の成功にはこんなにも心がズキズキすることはなかったので、これはそういう一般論ではなく、私とアリソンが一緒に過ごしてきた歴史に関係があるのだと考えた。私たちはマサチューセッツのノーザンプトン、レズビアンの世界の中心地として知られるそこで知り合った。そこはカムアウトしたレズビアンたちで賑わっていて、恋に落ちたり、Hot FlashesかResistersみたいなチームでソフトボールをしたり、デモを企画したりしていた。誰も同性婚なんて考えていなかった。私たちは家父長制と闘ったり、速球を投げる練習をしたり、私達の間の複雑でいびつな関係をどうにかするのに忙しかったから。

 

 

 

アリソンも私も、関係が複雑になるほどにはまだお互いをよく知らなかった。私たちはただ、この街のオタクっぽいダイク二人だった。私たちはどちらも、レズビアンブックストアのWomonFyreによく行くことで知られていて、赤狩りの時代にはソフトボールをしていた。そのうち彼女は引っ越して、Dykes to Watch Out Forという漫画を描き始めた。この漫画は非常に有名になり、彼女も、少なくともレズビアンたちの間ではよく知られる存在になった。大統領や映画スターを輩出した街の市民のように、ノーザンプトンのレズビアンたちは彼女がここ出身であることを誇りに思ったりした。

 

数年が過ぎた。私は詩で芸術系の修士号をとったけれど、他になんの計画もなかた。私はBとどうしようもないほど恋に落ちていて、彼女とダメになったとき、ちょっと前なら神経衰弱とか言われたような状態になっていた。ある日の午後、Bとの最後のデートのあと、私はもう自殺するしかないと思うような苦しみの中にいた。でも、駄目だと。私はこれが自分に起こったことではないみたいにして作品に書いてやろうと思い、そして私の最初の小説が生まれた。もちろんその当時はそんなことになるとは思わなかったけれど。私がまだ未練と悲しみのなかにいたとき考えられた唯一のことは、どこか遠く、寒いところに引っ越そうということだけだった。カナダ国境近く、シャンプレーン湖のグラン・アイル(人口5500人)。そこで、安いコテージをかりた。「コテージ」なんて可愛らしいものでもなかったけれど。それでも、杉の藪の奥、湖に浮かんでいるみたいに見える私の家は、ささやかながらフロントポーチがあり、そこで私のトラ猫のフレッドは遊ぶことができたし、私も夕方にはそこに座ってコウモリを見たりできた。

 

物書き仲間に私は引っ越すと告げると、一人の女性が言った。「ねぇ、そこってアリソンが引っ越したところよ。」彼女は、グラン・アイルの古くて大きくてぼろぼろの農家に住む女性との(軽率な)関係のためにミネアポリスから引っ越したらしい。

 

アリソンはDykes to Watch Out Forでよく知られるようになっていた。その頃、小規模だけれどレズビアン出版社としては大きな方に入るFirebrand Booksがアリソンの漫画を出版していて、国中の朝刊に連載されていた。彼女は注目を浴びるのを恥ずかしがって、ほとんど自虐的に「今週ちょっとニューヨークに行ってくるから」とだけ言った。それは実際には、有名なラムダ文学賞[アメリカのLGBTに関する文学賞]を受賞するためだったのだけれど。

 

彼女は漫画で稼いでいた。大金持ちというわけではなかったけれど。私は、私にそっくりだけれどもっと勇敢で可愛げのある主人公が、何もかもを忘れるために島に引っ越すという小品か、長い散文詩を書こうと思っていた。私の頭はまだぐちゃぐちゃで、毎晩同じものばかり食べて(パスタなら、茹でて、お湯を切って、また鍋に戻して、食べて、最小限の労力で出来たから)Bのことを考えて、自分を哀れんでいた。失恋の痛みに耽っていれば、もう一つ別の惨めなことを相殺できた。本土のコミュニティ・カレッジでの教える仕事がうまくいっていなかった。

 

最初の夏、私とアリソンは毎日のように会っていた。ある午後、私は彼女がうちの庭から私を大声で呼ぶのを聞いて、彼女のカヌーに乗ってでかけた。フレッドは浜辺で私達を訝しそうに見ていた。岩でゴツゴツしたビーチに座ったり、島を自転車で一周したりした。

 

私たちは書くことと芸術、そして名声について話し合った。私たちはどちらも孤立していたーーほら、私たちは島に住んでいたから。私は彼女に私が書いた小品を見せて、彼女はこれは小説になり得ると言った。私を本物の芸術家だとも。私は詩や、詩的な小品を書いた。私は、彼女こそ文化を変える作品を生み出す人だと言った。「あなたってほんと天才。」彼女の漫画のプロットや、私の作品の一行、どちらかの構想についてアイディアを出しあったりした。

 

1990年代初頭、私は小品を一つにまとめて、小説にしようとしていた。その頃、レズビアンやゲイの出版界隈で「クロスオーバー」がよく話題になっていた。ゲイやレズビアンを主人公としつつも、主流の出版社から出版される本のことだ。主流の出版社で出版しようとするレズビアンと、小規模なレズビアンや女性出版社にとどまるレズビアンの間には分裂があり、アリソンは後者にとどまろうとしていた。アリソンの作品に主流の要素はなかったのだから、実際には彼女には選択肢はなかった。彼女の漫画のタイトルだけとっても、ホートン・ミフリンのような大手に取り上げてもらえるはずはなかったし、飛行機で彼女の漫画を読んでいたら隣の人が「私もそれ好きです」と声をかけてくるようなシチュエーションも起こりようがなかった。

 

でも私の本は違った。私のは上品で直接的にはレズビアンについてはあまり書いていない。レズビアンについてというよりは、彷徨うクーガーや、陸地を見つけたカモについての本だった。Riverhead Booksが私の作品を気に入り、出版してくれることになった。

 

私は、レズビアンの生活をより直接的に扱うアリソンや他のレズビアンの作家仲間たちを裏切っているような気持ちになった。彼女たちから離れて、より広い名声を得られる世界に移ろうとしていたのだ。

 

『Toward Amnesia』は8000部を売り上げ、ペーパーバックにもなった。私が次の小説『Blue』を売り出そうとする頃には出版業界も変わっていて、私はいくつかエージェントを周ったけれど、どこも私の本を売ってはくれなかった。その後、『Blue』はピーター・テイラー賞を受賞して、テキサス大学出版から出版されることになった。

 

この話は、いかに出版業界が90年代以降ひっくり返ったかということを知らないと伝わらないだろう。『Toward Amnesia』が出版されることになった頃、出版社はレズビアンについての本や有色人種の作家による本を出すことは恐れていたけれど、詩のように読める小説を出版することを恐れていなかった。(そして御存知の通り、こういう作家たちによる作品を一定数以上出版することに消極的な出版社は今でも多い。)出版業界の地盤も変化し続けている。中堅の出版社は大きな会社に買収され、書店が減っていき、新たな作品を発掘する部署よりもマーケティング部門が大きな力を持つようになった。そしてBarnes & Nobleのようなチェーンの書店、そしてアマゾンが登場した。

 

かつて出版社は今日ではとらないようなリスクもとっていた。名が知られていなかったり、それまでの作品が売れていない作家の原稿を編集者が気にいっても、もしその作品を出版して大売れしなければ編集者の首が飛ぶ。美しく、詩的で、説得力のあるプロットがある多くの原稿が、超人気作家になれない作家のデスクの上に積み重なっていく。運が良ければ、勇敢で根性のある小規模な出版社から出版されることもあるかもしれないけれど。

 

1990年代なかばまでに、アリソンと私はどちらもグラン・アイルから離れていたけれど、まだ近所に住んでいて、彼女が車でうちのドライブウェイに入ってくる音も、大声で私を呼ぶのも聞こえたし、一緒にカヌーに乗ったり山登りをしたりしていた。グラン・アイルではない場所で、ちゃんとした家のようなコテージに住み、ちゃんとしたご飯を食べるようになっていた。私の傷ついた心は癒えていた。

 

ある日、グラン・アイルよりも居心地の良い緑の浜辺にいるフレッドに見守られながら一緒にカヌーに乗っていたとき、アリソンは自分の父親について何かを書こうと思うのだけれど迷っていると言った。何年も、カヌーに乗りながら、もしくはキャメルズ・ハンプを登りながら、アリソンは父親について話してくれていた。父親は、彼女が大学生の頃、事故で亡くなったと。彼女はそれが事故か確信が持てなかったという。アリソンは父親がゲイで、おそらく自殺したのだろうと思っていた。事故はアリソンのカミングアウトの直後だった。アリソンは悩んでいた。確信も持てないのにどうしてそんなことについて書くことができる?父親や事故について書く権利があるだろうか?

 

書ける、と私は言った。その頃には、私は自部が最も書く必要のあることを書かなければならないということを知っていた。それだけが意味のあるルールだった。

 

でもどうやって生きていく?アリソンの収入源は彼女の漫画だけだった。Dykesを書き続けながらこのプロジェクトを始める余裕なんてなかった。これは芸術家なら誰もが直面するジレンマだ。なんとか時間を見つけて漫画と回顧録の両方を進めてすべてをリスクに晒し、この無謀なアイディアがどう転ぶかを見てみるのか?

 

アリソンが隔週でDykesを連載しながら回顧録にも手を付けていたとき、私は新しい小説と、教職と、コテージの売却とNYへの引っ越しをしながら、新しい恋を探していた。私は小さく、稼ぎは少なくとも熱心な人たちが働く非営利の大学出版SUNY Pressと3作目の小説『グラン・アイル』の出版を契約した。

 

アリソンの本はどうなったかというと、彼女は主流のエージェントを見つけて、すぐにホートン・ミフリンに売れた。あなたも聞いたことがあるかもしれない、『Fun Home』というタイトル。出版されると、アリソンの名前はあらゆるところに出てきた。ニューヨーカーや、サンデー・タイムズで1ページ丸々書評が乗ったり、ラジオでインタビューされたり。ヨガ教室で下向きの犬のポーズをとっていたときでさえ、誰かがアリソンの本について話しているのが聞こえた。実際、『Fun Home』は素晴らしい本で、でもその評判の一因は、出版社と文学賞受賞作品を選定する側のリスク嫌悪にあった。アリソンは怪物のようなベストセラー製造マシンに取り込まれた。一度その胃袋に滑り込んだたら、賞とベストセラー作家にうっとりした聴衆の前でのスピーチへの招待と一緒に吐き出されるのだ。

 

『Fun Home』が出版された年、私が毎年出席していてアリソンは出席したことのない年に一度の作家の会議の前に、私は彼女の名前が見出しにあるのを見つけた。自分の中の彼女への羨望をどうにか乗り越えないといけないと気がついたのはその時だった。古くからの友達とホテルのバーで一杯飲むことを喜ぶことができず、代わりに、私の不機嫌な心は沈んでいった。またアリソンか。

 

その会議のとき、廊下にいた私に、知り合いが近づいてきた。彼の目は輝いていて、私は彼が私と会えてそんなに嬉しいのかと驚きつつ喜んだ。彼がこう言うまでは。「アリソンと連絡とってる?彼女に僕のメールアドレスを伝えてくれないかな?」

 

事態が複雑なのは、私はアリソンの成功を喜んでいないわけじゃないということだ。彼女が成功して、本当に月に飛んでいけるぐらい嬉しい。そして彼女の成功はつまり、ホームチームの勝利でもある。レズビアンにとってだけでなく、最も書かなくてはいけないことを書いた作家にとっても、アリソンの成功は勝利だ。才能があり、熱心な作家がリスキーだが意義深い本を作り、彼女が受けるべき賞賛を受けているのだから。

 

耐えられたのは、アリソンと私がこういうことについて全部話しているからだった。彼女と話すと、あの夏のコテージの狭い芝に自転車で滑り込んできて私の名前を読んだ、あの古くからの友達のアリソンだと感じられる。私たちはただ、なんとか必死に仕事をこなすクリエイティヴな仲間であると。

 

それでも、私を通じて彼女に連絡を取ろうとする人と会ったり、アリソンの本をもとにしたミュージカルの広告を見たり、ラジオでのアリソンのインタビューを聞いたりするのは胸がいたかった。アリソンがスーツケースを引いて世界を飛び回り、講演に招待され、パーティーに参加して、学校で教え、名誉ある賞を受け取っているであろうときに、私は創作活動に没頭している。

 

なんで私はアリソンが得ているような名声を得られないのか、という問いに苦しめられてきた。私の書いたものはそんなに良くないのだろうか?出版業界とマーケットの気まぐれで、アリソンのほうがマーケットの受けがよかっただけなのだろうか?運の違い?皮肉でもなんでもなく、私もクィア系の出版業界に常に片足を突っ込んでいたけれど、私が最終的に男と関係を持って、ニッチの需要にかなわなくなったから?アリソンが素晴らしい文学的、芸術的な作品を作っただけではなく、レズビアンの作品という文化的な意義が評価されたんだろうか?

 

有名になりたくて仕方がないというどうしようもない恥ずかしい事実。人に素晴らしいと言われたいし、出版社から上下巻の本の出版のオファーがほしい。世界の注目を浴びたい、私の才能と努力とウィットのすべてを見てほしい、受け入れられたい、愛されたい。愛されたい、愛されたい。

 

アリソンがパブリック・シアターでのミュージカル版Fun Homeの講演に連れて行ってくれたとき、私たちは私たちの友情の軌跡について話した。アリソンはナプキンに小さなグラフを書いた。Toward Amnesiaのときに私のキャリアが上がり、そして、Fun Homeで彼女のが上がった。「でも今じゃ、あなたは全然違うグラフの上にいるね」私は言った。正直で現実主義者なアリソンは、少し悲しげに頷いた。「そうね」と言った。

 

客観的に考えれば、こういった出来事も、私の古い友だちに起こった、喜ばしく、誇らしい、何かすごいこととして見ることができる。私がその一部であると思うから私のプライドが邪魔をするのだ。作品や創作プロセスについて話しながら山を登り、カヌーを漕いだ二人の過去すべてが、彼女のFun Homeの完成とそれが世にでることを可能にした一部だと思うから。

 

自分の人生、作品について振り返った時、恐怖に震えた。私がこれまで出してきた3つの本は、誰かが欲しければあげられるように何冊も持っているけれど、それでも本棚を埋めるには足らないのだ。

 

でもアリソンがマッカーサー賞をとったとき、私の中の何かが変わった。彼女はついに大きな賞、私達が冗談のネタにしていた賞をとったのだ。

 

2つのことが起こった。私がもやもやしていたことはアリソンとは関係なく、私がどれだけ自分の作品に熱心に取り組んできたかという問題だとわかった。アリソンがDykes to Watch Out Forのために粘り強く絵とストーリー作りを練習している時、私は何をしていたんだろう?海岸から海岸へと行ったり来たりして、どうしようもない恋に落ちて、詩を書いて、小説を書いて、水彩画を描いた。ひどい時には何もせず、ただスーパーに行くのに何を着ればいいのか考えていた。

 

アリソンがマッカーサー賞を受賞したことで、私が今までいたところから一歩踏み出して、今までのごちゃごちゃと私がやってきたこと、豊かに暮らしながら私がしてきたことを考えるようになった。書きものや創作活動だけでなく、引っ越し、愛し愛され、教え、プールで泳ぎ。フレッドを埋葬し、新しい猫を飼い。何を着るか悩み。

 

アリソンのマッカーサー賞受賞が教えてくれたもう一つのことは、私はあの有名なアリソン・ベックデルが可能になったのは私のおかげだと思っているということだった。私、という個人ではなく、私たちみんな。名誉ある賞の受賞者のそばには常に第2位の人や次点候補がいる。究極的に、私たちはみんな、なんとか時間を見つけて仕事に集中しようとしている仲間たちだ。たとえそれを遮るものが、ディナーパーティーのスピーカーになることであったり、学生のペーパーを集めることであるような違いがあっても。私達は孤独で、作業を一人で進め、アイディアを生み出すけれど、互いの創作プロセスに深く関わりあっている。世界の何処かでレモンの絵を書いたアーティストが、他のアーティストが大きな抽象画を書くのを可能にするのだ。「偉大な作品に凝縮されていく。絞り出された油のように」Gerald Manley Hopkinsが言ったように。

 

私の父の父親は、ノーマン・ロックウェルと同時代のコネティカットに住むイラストレーターだった。彼は油絵を描いていて、私も彼の作品をいくつか持っている。どれもすごく良いけれど、とくに、ディナーテーブルのパーティーの様子の絵が良い。祖父は有名ではなかったけれど、生き生きとした絵を書いて、家族を養おうともがきながら、それでも絵を描く時間を見つけた。パーティーには私達みんないて、テーブルに付き、誰もが互いに会えて幸せそうにしている。そんなことを考えるとき、ディナーパーティーの絵を思い出す。赤と白どっちにする?

 

アリソンが名声を得たことは、私もまたスリリングで予測のつかない世界の一部であり、私にできることは仕事を続けることだということを教えてくれた。結局、それが私達みんなしていることだから。夜中に急になにか思い浮かんで立ち止まったり、あと一行だけ書こうと、もしくはあと1作品だけ作ろうとしてみたり。それはいつも小さく、私的なところから始まる。どこにたどり着くともわからなくても、かすかに見える光を辿るかどうかはそのアーティスト次第。

 

Fun Homeがブロードウェイで公開されることになり、私はアリソンとまたキャメルズ・ハンプに山登りに向かった。アリソンは友だちにチケットをどうやって買えばいいのかわからないと言っていた。たくさん買うことはできるから、誰も忘れないようにしないといけないと。そして家族。そしてキャスト。私はアリソンに、シアターの近くのバーでパーティーを開いて、何枚でも買えるだけチケットを買えばと言った。もし一緒にパーティーしたい人たちを招いて、みんなに無料のチケットを渡せば、みんなハッピー。

 

そして私たちはそのパーティーにいた。私のパートナー、作家のPeter Bricklebankは、彼が言うには「粋な」格好をして、私はセクシーな黒のドレスを着ていた。

 

アリソンとアリソンの彼女に話しかけはしなかった。あまりに沢山の人に囲まれていたから。演劇のスターもちらほらいて、もちろんFun Homeのキャスト、そして友達で詩人のElaine Sextonが言うところのエンターテイメントと劇場と政治の世界の「パワー・レズビアン」たちも。でもそんなことどうでもよかった。私はただ人々を見ながらウォッカを飲んで、いろんなことがあったあと、私がここにいて、アリソンがずっと上に、上に、上に、私達みんなを連れて昇っていくのを仰ぎ見ていた。

 

パーティーのあと、私達はみんなでシアターに歩いて行って、アリソンは抱えきれないほどのブーケを受け取った。慣れたふうに、人々と観客に優雅に手をふって。中に入ると、アリソンは私の隣の席に座るためにほかの人に丁寧に席を動いてもらうようお願いした。劇が始まると、私はステージから目が離せなかったけれど、彼女がそこに、私のすぐとなりに、本当に、確かに、古くからの友達アリソンがそこにいることが嬉しかった。

 

劇場で彼女の隣に座り、私がもう30年もずっと聞いてきたアリソンの子供時代の話が上演されるのを観て、私は羨望や嫉妬など少しも感じなかった。脚本は素晴らしく、ダンスも演技も音楽も最高で、魅力とユーモアたっぷりに人間に普遍的な深いテーマを伝えてくれる、最高に面白いミュージカルに仕上がっていて、すぐに魅了された。誇らしく、感動し、私の人生を幸せに思った。私の友達、天才と生きてきた私の人生を。

 

劇は素晴らしいブレークスルーだった。私たちの抵抗、教育、喧嘩、説得、投票すべてが、実際に世界を変えるのだと感じられた。クローゼットのゲイ男性のカムアウトしたレズビアンの娘にまつわる本を基にしたブロードウェイ・ミュージカル。本当にすごいこと。そして、少しだけ胸にちくりとささる。