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feminism matters

英語(とたまに韓国語)のクィア・フェミニズム系記事の翻訳の貯蔵庫。

なぜ私たちのフェミニズムは様々なアイデンティティの交差(intersection)を前提としたものでなければならないのか(そしてそれを実践する3つの方法)

Why Our Feminism Must Be Intersectional (And 3 Ways to Practice It)

なぜ私たちのフェミニズムは様々なアイデンティティの交差(intersection)を前提としたものでなければならないのか(そしてそれを実践する3つの方法)

 

原文はこちら。 http://everydayfeminism.com/2015/01/why-our-feminism-must-be-intersectional/

 

2015/1/11

Jarune Uwujaren

Jamie Utt

 

伝説的なスコットランドの歌手、ユーリズミックスのアニー・レノックスは最近、「いいですか、挑発的な腰振りダンスはフェミニズムではありません」というステートメントとともに、ビヨンセはフェミニストではないと言い切り、「白人」フェミニズムの代表としての地位を確かなものにしました。

 

「白人」フェミニズム(White feminism)とは何でしょう?BattyMamzelleのCateが定義してくれています:

 

「白人」フェミニズムは、有色人種の女性にとりわけ影響を与えるイシューを排除することを許す一連の考え方。中産階級の白人女性を基準とし、他の人々をその型にあてはめる画一的なフェミニズム。フェミニズムの実践の手法であり、必ずしも個々の白人のフェミニストを告発するものではない。

 

 

さて、レノックスは自分を「白人」フェミニストとは考えていないでしょうが、ビヨンセのフェミニズムとその表現を「不愉快」「搾取的」「問題あり」ということで、多くの「白人」フェミニストが推進していると知られる政治を表現しています:「フェミニズムは私達が見たいと思うような姿をしていなければいけない。そうでなければフェミニズムではない。」

 

大抵の場合それほどあからさまではなく、多くの「白人」フェミニストたちはそんなことを言ってないしやってもいないと否定するでしょう。しかし、「どうして人種の問題を持ちだして私たちを分断するの?」とか「トランス女性って本当に女性なの?やっぱり区別が必要だと思う」といった微妙なコメントの裏に、そういう態度があることを感じ取れるでしょう。

 

様々なアイデンティティの交差、横断を考慮に入れたフェミニズムを求める声に直面し、横断性[intersectionality]という概念は、現実世界とはつながりのない、ただの学術的な専門用語だという「白人」フェミニストさえいます。

 

横断的なフェミニズムを否定しつつ、「フェミニズム」を「ヒューマニズム」と言い換えることには断固として反対するというのは皮肉だとわからないフェミニストがいるようです。

 

端的に言って、分断をもたらしているのは、自分たちが直面する独自の問題に敏感に反応するフェミニズムを求める側ではありません。フェミニズムにおいて、多様なアイデンティティの交差を踏まえた倫理の必要性を理解しない側が、私達を分断しているのです。

 

横断性[intersectionality]とは何なのか?

 

特権的なアイデンティティをもっている方の人たちが、抑圧されている人々をフェミニズムに包摂するのに四苦八苦するのも当然です。特権は、特権を持っている人には見えず、自分たちが周縁化されたり抑圧されている方法のほうにフォーカスするほうがずっと簡単です。

 

しかし、横断性のレンズがなければ、私達の運動はほんとうの意味で、反抑圧の運動にはなりえません。なぜなら、人々が経験している抑圧を綺麗に分類するなんて不可能だからです。有色人種の女性にとって、人種主義はジェンダーによる抑圧と切り離せません。障害を持つトランスの人は、自分のアイデンティティのどの部分が最も解放を必要としているかなんて選べません。

 

しかし、横断性というのが本当は何なのかについて、しばしば混乱があるようです。

 

著名な法律学者で、批判人種理論の理論家であるKimberlé Crenshawはこの言葉を1989年の論文「人種とセックスの交差[intersection]を脱周縁化する:黒人フェミニストの反差別ドクトリン、フェミニスト理論、反人種主義の政治の批評」で紹介しました。

 

Crenshawによると、主流の反人種主義の政治とフェミニズム理論の両方からの黒人女性の「排除の問題」は、「単に黒人女性をすでに作り上げられた分析の枠組みに含めるだけでは解決しません。なぜなら、人種とジェンダーを交差した抑圧の経験は、人種主義と性差別の総和よりも大きくなるもので、横断性を考慮に入れない分析では、黒人女性が抑圧される独特な方法を十分に論じることはできないのです。」

 

Crenshawのフォーカスは人種とジェンダーの交差でしたが、彼女は「周縁をマッピングする:横断性、アイデンティティ政治、有色人種女性への暴力」のなかで、彼女の「人種とジェンダーの交差へのフォーカスは、いかに社会が構築されているかを考えるとき、多様なアイデンティティの基盤を考慮する必要が有ることを強調するためののものだ」と言っています。

 

つまり、横断性は、あらゆる社会正義のための仕事において適応されるべき枠組みで、アイデンティティに複数の側面があり、それは私たちの生や経験を豊かにし、同時に抑圧や周縁化を複雑にもしているということを認識する枠組みなのだということです。

 

複数の抑圧は互いに交差しながら機能し、経験されるものなので、それらを分けたりすることはできません。

 

だから、Flavia Dzodanの言葉をかりれば、「私のフェミニズムは多様なアイデンティティの交差を踏まえたもの[intersectional]だ、そうでなければクソだ」ということです。

 

 

横断性[intersectionality]を文脈において理解する

 

横断性の概念をよく理解するために、女性の抑圧の証拠として最もよく使われる例を使って考えてみましょう。女性や少女をターゲットにする暴力。

 

控えめに見積もっても、ジェンダーに基づく暴力(性暴力、親しいパートナーからの暴力、通りでのハラスメント、ストーキングなど)を生涯のうちに経験する女性の割合は25-50%にもなります。

 

しかし、この数字の中身をみなければ、多様な抑圧が積み重なってこの暴力が発生する方法が見えてきません。

 

たとえば、有色人種の女性(もしくは男性)は、白人の女性や男性よりもこのような暴力の被害を受けやすく、富という特権を持っていれば、女性もこれらの暴力から距離をとることができます。

 

また、バイセクシュアルの女性は、他の女性よりも性暴力を経験する可能性がずっと高いこともわかっています。

 

また、LGBTQについてのヘイトクライム事件のなかで、78%の被害者は有色人種であり、トランスの人々はシスジェンダーの人よりもヘイトクライムの暴力を経験する可能性が27%高いです。

 

つまり、アメリカではあらゆる女性がジェンダーに基づく暴力の危険にさらされていますが、一部の女性は、よりその危険が大きいのです。

 

女性に対する暴力(もしくは他の賃金格差などの問題)を一般的に話すだけだと、本当の問題は何かを見逃し、結果として、多様なアイデンティティを交差しながら生じる抑圧を掘り崩す解決策を描くことができなくなるのです。

 

より個人的なレベルでは、横断性のないフェミニズムは私達がどんな存在かを十分に表現するのを妨げます!横断性の欠如は人々と彼女たちのアイデンティティの抹消に繋がるのです。

 

この記事を書くための準備として、私たち著者2人は、異性愛主義的な考え方が、魅力と愛についての二項対立の外の生き方を制限しているということを考えました。自分と同じジェンダーの人達と積極的に付きあおうとしなければ、実際は自分のことをそのように考えていなかったとしても、私達がまるでストレートの人として生き、振る舞うと周りに思われるのです。

 

フェミニストや反抑圧の空間においてさえ、厳格なジェンダー役割が関係性のあらゆる側面を規定し、私たちのアイデンティティの一部が消されていきます。

 

横断性は、暴力や経済的不平等といった目に見えて明らかな問題への取り組みだけについてのことではありません。それはまた、人々が自分のあり方を存分に発揮して生き、運動の中で声をもつということです!

 

 

ほんとうの意味で包括的なフェミニズム

 

横断性についての誤解の一つは、それがフェミニスト運動の分断や排除を促進するというものです。人種、階級、セクシュアリティやその他のアイデンティティのマーカーをフェミニスト分析に含めることで、一部の人によれば、横断性を重視するフェミニストたちは運動を弱体化させ、団結を掘り崩しているというのです。

 

このような考え方の問題は、女性の間の共通点にのみフォーカスする画一的なフェミニズムは包括的というより、大事なことを消し去ってしまうということです。すべての女性が性差別に直面したとしても、すべての女性が人種化されたセクシズムや、トランス女性への女性嫌悪、性器中心主義の性差別に直面するわけではないからです。

 

団結のために、特定の集団の女性たちが直面する課題に目をつぶることは、もっとも特権的で声の大きな人をフェミニスト運動の中心に置くことになります。すでに他の人よりも運動の中で大きな空間を占めている人たちが、自分のそれを譲ることなく、他の人たちのための空間を作ってあげたふりをすることを可能にします。

 

画一的なフェミニズムとアイデンティティの交差を重視するフェミニズムの関係は、#すべての人の命が大事、と、#黒人の命は大事、の関係のようなものです。前者は包括的であるようなふりをしていますが、実際には、後者の指摘する、特定の人々に不均衡に影響を与える課題を消してしまっているのです。

 

 

アイデンティティ横断的なフェミニズムを実践する3つの方法

 

横断性は頭のなかで考えるだけでは足りません。Kimberlé Crenshawがそうしているように、批判的な理論と自己内省、そして運動をあわせた、地に足の着いたフェミニストの実践のための倫理でなければなりません。

 

横断性の倫理を私達の日常的なフェミニズムの実践に取りいれるための方法を、以下で提案します。

 

  1. 内省

 

アイデンティティの交差を考えるためには、私たち自身のことを注意深く見てみる必要があります。とくに、自分が理解できないとか、異議申し立てを受けていると感じたときに。自分個人に影響がないような課題やアイデンティティについて、学ぼうとしなければなりません。

 

自分が持っている特権に向き合うという困難な仕事に取り組むことが、アイデンティティ交差を考えるフェミニズムの鍵です。

 

フェミニズムの理論的な理解を超えて、いかに私たちの日常の中で、人に接するかを考えるのです。

 

たとえば、[著者の一人である]Jamieの活動は、彼自身のパレスチナ支援活動においてユダヤ人差別への反対を明確化し、同時に、シス女性やトランスの人々に対して誠実に接することを妨げる性差別的な社会のあり方を変える必要を訴えるという、より横断的な倫理が必要だという前提に立っています。

 

自分自身と自分の欠点を理解しようとしなければ、私たちのフェミニズムは横断的で誠実なものにはなりません。

 

2. 自分中心のものの見方をやめる

 

フェミニストとして、フェミニズムは性差別を終わらせるということ以上のものであるということを考えることは重要です。フェミニズムは、各々異なる女性たちにそれぞれ異なる方法ではたらく、互いに繋がった抑圧のシステムをすべて終わらせることでもあります。

 

中産階級の人には、たとえば[著者の一人]Jaruneには、人種の問題について知識として知っていても、黒人コミュニティの貧困の問題が目に入りにくくなります。同様に、健常者は健常至上主義に気づきにくく、白人は人種主義に気づきにくく、シスの人たちはトランスフォビアに気が付きにくいです。

 

私たちが特権を当然のものだと普段思っているということが、ほんとうの意味で包括的なフェミニズム運動のために、様々なアイデンティティを横断する分析が必要であることの理由です。それがなければ、自分自身の経験や、社会の中ですでに最も特権的な人々の経験を中心にすえたフェミニズムになってしまいます。

 

だから、自分自身や、特権のある人々を中心におくことを避ける努力をしましょう。社会は、有色人種の人よりも白人女性が人種主義について語るのに耳を傾けがちで、たとえば、白人フェミニストは、有色人種の人たちの声を遮って自分が話していないか気をつける必要があります。

 

どんな活動をしていて、どんな特権をもっていたとしても、自分のことではないなら一歩下がって、自分には直接影響を与えないようなことについて人から学び、他の人が自分の経験について語っている時には耳を傾けましょう。

 

  1. 間違いを恐れない

 

フェミニズムには完璧主義が入ってくる余地はありません。つまり、私たちはフェミニズムの仕事をする過程で、間違いを恐れず、そこから積極的に学ぶ必要があります。

 

様々なアイデンティティの横断と交差を考慮に入れた枠組みを採用することは簡単なプロセスではありません。自分にとっては理解し難いことを理解しようとし、自分とは異なる人に共感し、他の人より前に出て声を出すよりも一歩引き、高い次元での説明責任に自分自身を開いていくことが必要になります。

 

間違いを避けるためになんの努力もしないよりは、とにかく全てやってみて間違うほうがマシです。横断性を理解する努力をしなければ、自分自身の考えを優先して他の人の生きた経験を軽んじ、異議をつきつけられたら自己防衛モードに入り、他の人たちがPCすぎるとか過敏すぎるとか文句をいうことになってしまいます。

 

間違いを避け、批判に逆上するより、学び、成長、そして自分の間違いを認めるという連続したプロセスを受け入れるほうがよっぽど建設的です。へまをしたり(不可避です)、何かを指摘された時に、どう応答するかが重要なのです。

 

社会正義のための運動のなかで、互いに互いの間違いを指摘しあうことは、愛の行為になりえます。お互いが説明責任を果たすようにし、自分たちのやっていることには、自分たちが役に立とうとしている人たちにとって価値があるのだと確認することができます。

 

間違いの指摘をパーソナルに受け取ったり自己防衛モードに入るのではなく、それは個人としてのあなたやあなた自身の価値がどうこうという問題ではないと理解しましょう。あなたは良い意図をもった完璧に素晴らしい人かもしれませんが、それでも抑圧的な構造を補強するような何かをしてしまうことはあります。だから、自分の体面を守ったり、自分だけシステマティックな抑圧とは無関係だと考えたりするのでなく、自分の振る舞いを調整することに集中しましょう。

 

フェミニズムはあなたの慰めのためのものではない

 

多様なアイデンティティの交差と横断を前提としたフェミニズムは難しいものです。それを忠実に実践しようとすれば、難しい状況に自分を置くことになり、考えたこともないことを理解するべく背伸びしなくてはならず、居心地が悪くなるかもしれません。

 

でもフェミニズムは、誰かを心地よくさせるためのものではないのです。

 

その正反対で、横断的なフェミニズムはすべての人を居心地悪くさせる必要があるのです。居心地の良い所にいては、成長も進歩も決してないのですから。私たちは傷つき、葛藤し、背伸びし、新しいことを理解しようとする中で成長します。

 

横断的なフェミニズムの難しさは、変化を起こすことに繋がる困難と戸惑いなのです。

 

だから、私たちは積極的に批判的思考をし、自分たちの特権から降りるために必要な仕事をし、私たちのフェミニズムを組み立てるための横断的な倫理とレンズをつくり上げる必要があるのです。

 

横断性への旅は困難に満ちています。間違いを犯すかもしれません。みんなそうです。しかし、正義に基づいた関係性、コミュニティ、社会を実現したいなら、それを続けていかなくてはならないのです。

 

 

Jarune Uwujaren is a Contributing Writer for Everyday Feminism. They are a Nigerian-American student recent grad who’s stumbling towards a career in writing. Jarune can currently be found drifting around the DC metro area with a phone or a laptop nearby. When not writing for fun or profit, Jarune enjoys food, fresh air, good books, drawing, poetry, and sci-fi. Read their articles.

 

Jamie Utt is a Contributing Writer for Everyday Feminism. He is the Founder and Director of Education at CivilSchools, a comprehensive bullying prevention program, a diversity and inclusion consultant, and sexual violence prevention educator based in Minneapolis, MN.  He lives with his loving partner and his funtastic dog. He blogs weekly at Change from Within. Learn more about his work at his website here and follow him on Twitter @utt_jamie. Read his articles here and book him for speaking engagements.