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ヒジャーブをする女性についてあなたが勘違いしている4つのこと

 

4 Things You’ve Thought About Hijabis That Are Completely Wrong

ヒジャーブをする女性についてあなたが勘違いしている4つのこと

 

2015/8/2

匿名

 

原文はこちら。 http://everydayfeminism.com/2015/08/wrong-thoughts-about-hijabis/

 

友達の集まりに行くといつも怖くなります。誤解しないでください、友達と遊びに行くのは大好きなんです—嫌いなのは写真です。写真に映るのが嫌いな人がいるというのはわかってもらえると思いますが、私には他の人とは違う理由があります。私はヒジャービ(ヒジャーブを着用する女性)で、家族のみんながこれを知っているわけではありません。もし家族に知られたら、家族の縁を切られるかもしれません—少なくとも家族のうちの一部からは—私の友達の一部がそうしたように。

 

誤解と偏見のせいで、私は自分自身が何者であるかについてのその一部を隠さないといけないのです。苛立ち、困惑、動揺、傷つき、恐れ。私がムスリムでありヒジャービであることへの他の人達の反応を見ると、わたしはそんな感情に苛まれます。

 

私たちは家族からの社会的なプレッシャーを受けてヒジャーブを着用していると言ってくる人もいれば、私たちがヒジャーブを着用するよう洗脳されているという人もいます。でも、そういう人たちはヒジャーブには反対も非常に多くあることを忘れています。ムスリムのヒジャービが、ヒジャーブについて話しているのを本当に見たことがありますか?実際に、彼女たちに意見を求めたことがありますか?

 

メディアでは、ヒジャーブを着用する女性について、ヒジャーブを着用する人を誰も呼ばずに話しています。こうして、抑圧について一面的な絵が描かれるのです。こういう抑圧のナラティヴを繰り返す人たちが、ほんとうにただ無知であるだけならいいのにと思います。もし知っていてやっているなら、ひどい言葉を言ってしまいそうです。

 

私はどうしてヒジャーブは抑圧の証拠という考えになるのかわかりません。ヒジャーブを着用するよう法が定めている国より、それを禁ずる法をもつ国のほうが多いです。実際、ヒジャーブを着用するよう強制されている人たちもいますが、シャツを着るよう強制されている人たちだっています。でもシャツそれ自体が抑圧というわけではありません。

 

ヒジャーブをつけていると、私はイスラム教徒の代表のように思われて、それだけでも非常に重荷なのに、人々はアホらしい質問をしてきます。「豚を崇拝してるの?」いいえ、ちがいます。そんな質問バカバカしいです。あるものを食べないからって、それを崇拝していることにはなりません。たとえば私の祖母はエビを食べませんが、エビを崇拝なんてしてません。

 

ムスリムの多くは、自分たちの宗教についてよろこんであなたに教えてくれると思いますが、それは私たちが質問に応じてもよいと思っている時にするか、自分で調べてください。道を歩いているヒジャーブをつけた女性に、なんでヒジャーブをつけているのか何度も聞くのは非常に失礼だし、ストリートハラスメントになりえます。

 

65回も道で知らない人に「なんでヒジャーブをつけるの?」と聞かれたことがあって、いらいらしているのです。公の場にいるとじろじろ見られます。私のことを話しているのではないかと思うようなひそひそ話をしている人たちもいます。こういう些細な嫌がらせが積み重なっていくのです。誰かに怒鳴られたわけでも、大事件になるようなことをされたわけでもありませんが、胸がずっしりと重たくなるのです。

 

そして、ひどい攻撃を受けることもあります。たとえば、私の父がニカブを着用するのが好きな女性と、自分をレイプした男を愛する女性を比べたときとか。父が公道で私の髪を切ろうと何度も言ってくるときとか。知らない男が指で銃の形をつくって私を「撃ち」、にやりと笑ったりとか。

 

ヒジャーブを着用するなという、大きな、とても大きな社会的プレッシャーが、少なくとも西洋にはあります。そして、ヒジャーブを着用している女性は、ムスリムであるということが目に見えてわかるので、ヘイトクライムの犠牲者になりやすいという研究もあります。先日のチャペル・ヒルの銃撃事件のように。

 

あなたは今きっとこう考えているでしょう—でも私はフェミニストだし、ムスリムのアライだから、ムスリムであるとかヒジャーブを着用しているとかいう理由で女性を攻撃したりしないと。でも、反抑圧を指向する場所にあってさえ、私たちはあらゆる形での周縁化と排除を経験しています。以下は、クィアやフェミニストのコミュニティのなかで私が経験した、周りの人たちが私に対してもっていた有害な思い込みの例です。

 

 

  1. 「ムスリムであることとフェミニストであることは両立しない」

 

私は意図的に、よく考えて、自分を愛し、自己実現するエンパワーメントの行為としてムスリムになったのに、私の決断をフェミニズムを諦めたのだと解釈する人がいます。私はフェミニストであることをやめたことなんて、これまで一度もありません。それでも、多くの人が私はフェミニストであることをやめたのだと決めつけます。

 

とくに、フェミニズム団体と自認する過激な団体FEMENのような人たちは、私がムスリムであることとフェミニストであることは両立しないといいます。このグループのメンバーは、ヒジャーブは抑圧であり、ヒジャービがヒジャーブは抑圧ではないと否定しても、私たちのことを嘘つきだと決めつけるのです。たとえば、FEMENのメンバーたちは公の場でひどくイスラム嫌悪的に振るまい、ボディペイントをして頭にタオルを巻いて「allahu akbar」という言葉を馬鹿にし、ムスリム女性自身よりも自分たちのほうが彼女たちの意見を代弁できると言います。

 

フェミニズムの重要なポイントの一つは選択の権利です。誰かが私のヒジャーブを着用する権利を否定するとき、彼女たちはフェミニズムに反して行動しているのです。

 

 

ヒジャーブを強制されている人たちがいるというのも事実です。でも、世界には15億人のムスリムがいます。全員が全員強制されているとは言えず、女性の持っている主体性を否定することはできません。

 

また、イスラム教においては、女性は男性と平等です。女性の善行は男性の善行と平等です。実際、イスラム教は、財産、肌の色、障害、性的指向、ジェンダーで優劣をつけません。どれだけ善行をしたかだけが問題なのです。ムスリムの国について論じるときメディアがフォーカスするジェンダー不平等は、しばしば、貧困や教育の欠如、個々の文化的伝統からくるものです。

 

イスラムと他の宗教の間にはいくつかの違いがあります。コーランは実際、その時代のものとしては聖書と比べても非常に進歩的な聖典です。たとえば、女性が結婚しても、彼女の財産は彼女のもので、夫の財産も彼女のものになります。それ以前は普通にあった女児殺しもコーランでは禁止されています。イスラム教では、男性が持参金[dowry]を得るのではなく、持参金は男性から女性に渡され、女性が自由に使うことができます。女性は相続も離婚もできます。これは聖書に記された女性の権利よりもずっと進んでいるものですが、キリスト教者はフェミニストになれないなんていう人はほとんどいません。

 

唯一の違いは、西洋にはずっと多くのキリスト教徒がおり、ムスリムは「他者」として認識されているということだけです。

 

  1. 「あなたは洗脳されている」

 

いいえ、されていません。

 

他の宗教からイスラム教に改宗した人たちの証言は、多くの人、いやたいていの人が、「洗脳されて」育てられたからヒジャーブを着用しているわけではないという証拠になるでしょう。私や他のヒジャービに対して、私たちが洗脳されているというのは有害です。なぜなら、その人は私たちが自分の利益を自分で考えられないと言っているわけですから。それって失礼ではないですか?私がヒジャーブを着用するよう洗脳されてるなら、あなたも帽子をかぶるよう洗脳されているということになると思います。

 

私は知りもしないキリスト教への改宗者に寄って行って「あぁなんてこと、洗脳されてるのね!」なんて言いません。同じ程度の礼儀をヒジャービも期待していいはずです。

 

これは小さいながらも立派な攻撃[microaggression]です。ヒジャービが洗脳されていると思っている人は、しばしば私たちの決断について議論しようとし、私たちがどのように生きるべきか指図しようとしてくるのです。そして、たいてい、こういうことはヒジャーブを着ている人たちが対話をしようと思ったり、それを歓迎していないときに起こるのです。言うなれば、いきなりいじわるで私のことをジャッジするようなクイズを出されているようなものです。そしてこういうことがずっと続くのです。こういうことをする人は、私が自分のことを自分で選ぶ能力を疑っているだけでなく、私の知性も疑っているのです。

 

私は自分の宗教と服装を自分で選べます。

 

  1. 「そんな些細なこと気にするな」

 

一つ一つのことは些細な事と思われるかもしれませんが、積み重なるのです。スーパーに行くと、向けられるあらゆる視線に注意をはらいます。どんな小さな嫌がらせがエスカレートして私の安全を脅かすものになるかわからないからです。向けられる視線や二度見してくる人が気になるし、「隣の人達がイエスについて話しだしたのは偶然なのか、それともわざと?」なんてことも考えます。(話はそれますが、私たちもイエスを信じています。ただ、少し違う形で。)これらが全て積み重なって、痛みを与えるのです。「そんな些細な事を気にするな」というあなたの言葉は、すでに積み重なった痛みをさらにひどくするのです。

 

人の視線や目線なんて気にするなと言われます。でも、感じる必要なんてそもそもない視線や目線です。近寄って来られないようにしなよ、とも言われます。私のパーソナルスペースや安全を侵害してくるのはあちらなのに。彼らの方から私に近づいてくるのに。でもそんなことより、そんな「アドバイス」なんてもらわなくても、私のほうがそんなことよくわかっているんです。私よりもひどい偏見を受けた経験のある人もいるでしょうが、私も私の経験から、そんなこと言われなくてもわかってると考えていいはずです。他の人がすでに経験してきていることを見くびるのは最悪です。

 

私たちはみんなそれぞれに違う葛藤があり、互いを助けるべきであって、誰かが傷ついている時に傷口に塩を塗るべきではないのです。それは人を萎縮させるし、私たちの意見は聞く価値が無いと言っているようなものです。それは受け入れられません。

 

 

  1. 「あなたはLGBTQIA+のコミュニティのアライにはなれない」

 

ふざけてるんですか?

 

ムスリムでありヒジャービであることで、多くの人と知り合い、話すことができるようになりました。たとえば、他のムスリムの若者たちとフェミニズムについてたくさん話したし、彼らも私たちの議論に理解を示し、興味を持ってくれます。また、ムスリム・コミュニティの人たちは非常にオープンです。私はゲイの権利の支持者でムスリムの友達がたくさんいますし、私自身もLGBTQIA+です。なんで他人が、私のムスリムという属性への偏見に基づいて、私のアイデンティティの一部を消そうとするんですか?そんなのめちゃくちゃです。

 

ヒジャービはもう十分偏見の目で見られてきました。LGBTQIA+やフェミニストのコミュニティにいるとき、同じような偏見の目で見られるのはいやです。でも、そういうことはあるんです。私を強いフェミニストとして、また成功するようにと育ててくれた父親に、私がバイセクシュアルであるということを伝えたら、私の宗教よりも性的指向のほうに、受け入れの態度を見せました。

 

私が加わっていたLGBTQIA+のコミュニティも受け入れてくれたわけではありません。私の知り合いは、「ムスリムって同性愛者も大丈夫なの?そうじゃないなら、ムスリムになんてならないで」といいました。私が改宗すると、LGBTQIA+の友達は(少数の例外をのぞいて)私をコミュニティの仲間として扱うのをやめました。彼らはまた、私がムスリムのコミュニティから追い出されるように、私の性的指向をアウティングしようともしました。これをきっかけに私は彼らと縁を切りました。一緒にいることが安全だと感じられず、傷つけられるからです。

 

こういうのが私が友達だと思ってきた人たちです。以降、LGBTQIA+のグループに参加するのをやめました。のけものにされるからです。念のため、何人かのムスリムの友達に私の性的指向についてカムアウトしてみましたが、彼らは全然平気でした。たしかに、私がムスリムのコミュニティでカムアウトすれば、バックラッシュがあったかもしれません。でも、どんな宗教的コミュニティであれ、カムアウトする相手によってはバックラッシュはさけられないものです。どちらにしろ、互いの性的指向をアウティングしないというのは守るべきルールです。

 

 

アライとして何ができますか?

 

じろじろ見ないでください。ジャッジしないでください。他の人に教えてあげてください。私が救済の対象ではないということをわかってください。私がフェミニストであり、アライであることは両立します。他の人と同じように扱ってください。それだけです。

 

この記事で示したように、私にはアライは必要です。そうでなければ、嫌がらせは決してなくなりません。嫌がらせや偏見がなくならないなら、私の人生も、他のムスリムの女性の人生も、非常に難しくなってしまいます。だから、このメッセージをシェアしてください。私は洗脳されていません。私と私の宗教について話したいと頼みもせず、いきなり道で話しかけて質問したり、思い込みを語ったりしないでください。ムスリムの女性はLGBTQIA+のアライになれるし、フェミニストにもなれます。そうでないと決めつけるのは馬鹿らしいことです。また、私が自分でこういったことを選べないと決めつけるのは、私が知っているフェミニズムとはかけ離れています。

 

私は救ってもらいたいのではありません。ただ少しの味方がいればいいと思います。