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私がフェミニストになるまでのくねくねした道

My Convoluted Journey to Feminism

私がフェミニストになるまでのくねくねした道

 

原文はこちら。

http://www.lennyletter.com/politics/news/a311/my-convoluted-journey-to-feminism/

 

Jane Fonda

2016/3/23

 

 

私がフェミニストになるまでの旅路について書いてとレナに頼まれました。そうして書いたのがこれです。

 

私はスロースターターでした。

 

1970年、私が33歳だったころ、5,000人の女性がNY市で中絶の合法化を求めてデモをしていると知りました。それをみて、日記にこう書きました。

 

 

「女性解放運動とやらはよくわからない。運動をやるべき重要な問題がほかにあると私には思える。世界中でこんなにも間違ったことが起きている時に、女性の問題に集中するのは、注意を分散させてしまう。女性たちはそれぞれ自分で解放が何なのか、その意味するところを男性に見せればいいのに」

 

ええ、そうです。私がどれだけ遠くに来たか思い出すのに、日記をつけていてよかったと思います。私は当時結婚して、フランスに8年住み、アメリカに戻ってベトナム反戦活動家になったところでした。アメリカは私がアメリカを去った時とはまったく違う国になっていて、だから、1970年の春、2ヶ月かけて車で大陸を横断し、映画”Klute”(邦題は『コールガール』)の撮影地であるニュ―ヨークまで行こうと思いました。アメリカをもう一度知り直す必要があると思ったのです。

 

私が旅をはじめて2週間の間に、ニクソンがカンボジアに侵攻を始めました。ケント・ステート大学で4人、ジャクソン・ステートで2人の学生が殺され、16の州で35,000人の州兵が招聘され、国の3分の1の大学が閉鎖されました。私がニューヨークにつくまでに、私は基地の外で統一軍事裁判法を配ったという理由で5度逮捕されました。

 

でも私が一番よく覚えているのは今挙げたことではありません。私が出会った女性のことです。彼女の名前はテリーでした。彼女はテキサスのFort Hoodの近く、Killeenというところで軍人向けのコーヒーハウスを営んでいました。基地の周りに広がったこういうコーヒーハウスは、戦争に疑問を持つ勤務中の兵士たちのたまり場だったのです。軍人のベトナム反戦運動を市民として応援し、関わり始めていた私は、可能な限り多くの時間をこういうコーヒーハウスで過ごしました。

 

テリーのコーヒーハウスにいるとき、何かが変わるのを感じました。なにか失ったものや探していたものではありません。それが存在していることさえ知らなかったのですから。でも彼女といると何かが変わるのを感じました。私は彼女の兵士たちへの対応を見ていたのです。彼女はベトナムに向かう兵士たちをジャッジすることはしませんでした。彼女は、こういう兵士の多くが労働者階級で、貧しく、田舎やインナーシティ出身で、徴兵免除を彼らのために勝ち取ってくれる素敵な法律家なんて手が届かない人たちだと知っていました。私は彼女が、「ハートフルな」傾聴と今なら呼ぶような態度で、耳だけでなく心で彼らの話を聞くのを見ていました。

 

ずっと後になって、キャロル・ギリガンの『もう一つの声』を読んだとき、1970年代初頭は、新たに出てきたフェミニスト心理学者たちが共感的なリスニング—フロイトとは全く逆のアプローチ—を治療の一貫として取り入れようとしていること、それが目覚ましい成果を出していたことを知りました。「ハートフルな」傾聴が、身体的に精神的に傷つけられた人たちにとって癒やしのプロセスの始まりになり得ると。テリーがそれを知っていたかはわかりません。おそらく彼女は、日常の中で、彼女が求めて闘うところの、すべての人が尊敬と共感に値するという民主的な社会のあり方を実践していたのではないかと思います。彼女はそれを、兵士たちや、私に対して示してくれました。

 

テリーは私を見てくれていたと思います。「映画スター」の私ではなく、私さえまだ知らないような私という人間を。そんな風に感じたのはそれが初めてのことでした。彼女は、私がどうして活動家になり、運動に関わるようになったかに興味があったようです。

 

私たちが次の集会について計画していた時、彼女は私の意見を聞き、あらゆる意思決定に私を参加させました。そんなことは今までありませんでした。男性の仲間が女性に意見をきかずにフライヤーの印刷をはじめたとき、テリーは彼らに注意しました。そのとき私は、後にそれがフェミニスト・リーダーシップやシスターフッドと呼ばれるものだと知るようになるものを経験したのです。それは力強く、目に見えてわかるものでした。

 

ある夜、テリーはコーヒーハウスにあるフェミニストを招き、女性の運動について兵士に語ってもらいました。最初、私は驚きました。なんで兵士に女性の運動について語るのが重要なのだろう?話の内容をよく覚えています。その女性は、女性と男性の間に真の平等があれば、男女双方にとって良いことだといいました。男性は、男性だけがシステムによって負わされている重荷を、もう一人で背負う必要はなくなるのだと。「これは女性が男性の取り分を取っていくということではないのです。」彼女は、混みあった部屋の床に座って話に熱中している男性に語りました。「それはパイを共有して、より大きなものにしようという話なのです。Win-Winです。男の子、男性、女性、女の子、地球、全てにとってです。」彼女の話を聞き、フェミニストにとっての敵は、男性ではなく、システムなのだとわかりました。「家父長制」とそれを彼女は呼びました。それまで、私はフェミニストであることは、男性に対して怒っているということだと思っていました。

 

私は自分のことを公に、フェミニストであると自称するようになりました。それは、私が勇気を持って、自分自身を振り返り、私が性差別を内面化し、それが自分を傷つける方法をしっかり見るようになるよりも何年も前のことでしたが。インドの賢人Kristnamurtiが言ったように「あなたは自分で考えていると思っている。そうではない。あなたは、文化の考えを考えているのだ」

 

私が育ってきた文化の中では、愛されるために女性は完璧でなくてはならないと言ってきました。痩せていて、可愛く、綺麗な髪で、物事をはっきり言うよりは親切であり、自己犠牲を厭わず、男より決して賢くなく、決して怒らない。私が強く、元気いっぱいのトム・ボーイであった頃は、そんなこと全然気にしませんでした。でも私が思春期に入り、女性らしさという幽霊が姿を現し始め、大事なことは自分がどう見られるか、そして期待に沿うことになりました。私の父は、義母を使って、痩せてロングスカートを履くように私に行ってきました。義母の一人は、彼氏が欲しいなら、私が変えなくてはいけない身体的な特徴をあげつらいました。そうするうちに私は、虚しくなりました。私の素晴らしかった部分はすべて取り除かれ、空っぽでばらばらになってしまった私の横に置かれてしまったのです。

 

自分の身体を嫌悪しながら、身体をもった存在でいることは困難です。私の父の5人の妻のうちの3人のように、私は摂食障害になり(おそらく、空虚を埋めるために)、私が世間に見せていたのは、少なくとも一部は、私ではない私であり、私は直感的に、自分のことや「問題」のことばかりを考えているせいで、そのことに気がつかない男ばかりを選びました。あぁ、それでも彼らは面白く、カリスマ的で、アルファ男性で、私の価値を認めてくれてはいましたが。

 

彼が一緒にいるなら、私も価値のある存在でいられる。

 

そしてもちろん、私は一緒にいる男が求めるレベルにかかわらず、完璧でいようとしました。感情的な親密さは慎み、もし正直に自分の気持を話せば彼を失ってしまうと思えば、自分の体と魂を裏切りました。(信じてください。私のオスカー賞は私の私生活に与えられたものであるべきです。)

 

男のために自分自身を曲げてしまう他の多くの女性がそうであったようには、私は彼らに経済的に依存していたわけでもありませんでした。いつも自分で稼いでいました。(このニュースレターで男女の賃金格差の問題がとりあげられているので、私の当時の自尊心はとても低く、男性より賃金が低くても、それを超える扱いに自分は値しないと思っていたことを認めます。)

 

世間はそうは見ていませんでした。彼らはフェミニストを見ていました。私は、女性の候補者を支持し、映画にジェンダー問題を持ち込み、女性を中心に置いた映画を作り、女性が身体的に強くなれるような運動ビデオを創ったという意味では、私はその一人でした。でも、私のフェミニズムは理論的で、頭のなかにあるもので、私の血と骨には染みこんでいませんでした。

 

私にとって、本当に性差別と直面するには、男性との関係をどうにかする必要があり、それができませんでした。あまりにも恐ろしかったのです。それは、下にトランポリンがあるかわからないまま、崖から飛び降りるようなことでした。

 

60歳になって、私の人生の第3幕、最終幕が始まったとき、どんなに恐ろしかったとしても、家父長制が私になしてきた傷を癒やすのだと決めました。差別を受けず、声をもった女性になるためにできること全てをやらないまま、人生を終えてしまいたくはなかったのです。

 

家父長制という言葉を使うと、人々が目をむいて「男は悪いので、母権制社会にしないといけない」と言っていると誤解される恐れがあります。もちろん、男女の差異を考慮すれば、一定のバランスをとるために、母権制の一部はそんなに悪いものではないかもしれません。私の3番目の夫、テッド・ターナーはよく「男たち、僕たちは機会を与えられていたけどヘマをしたんだ。そろそろ女性に譲る時だ」と好んで言いました。(ある程度は、彼は本気でした。でも、私がよく喋るのは決して好みませんでしたが。)

 

でも、これは「〜〜制」を他のものと入れ替えるということではないのです。それは、権力、暴力、強欲が物事の基本原理とはならないように、社会的、文化的な規範と制度を変化させることなのです。家父長制から母権制へというのではなく、家父長制から民主主義へ、ということです。フェミニズムは本当の意味での民主主義を意味します。そこに至る道程を示す地図はありません。それは未だ起こったことがないことなのです。これまで、良心ある男女も革命を起こすことはできていないのです。

 

私がフェミニズムに至る道程には外からの影響、内側からの変化、政治的なものと個人的なもの、両方がありました。個人的なものは、たとえば、独身になって、もう黙っているのをやめ、自分が自分の人生の主人公になりつつあるということ。女性たちとの友情はより深まり、価値あるものになってきています。以前読んだ本、キャロル・ギリガン、グロリア・スタイネム、ロビン・モーガン、ゲルダ・ラーナー、ベル・フックス、ジーン・ベイカー・ミラーやその他の著作を読みなおし、しかし新しい方法でそれらを理解するようになりました。この過程で、自分だけの問題だと思っていたことが、実際には、他の多くの女性達と共通の問題だと発見したのです。

 

私は一人ではありませんでした。個人的なことは政治的なことになり、私は身体を持ったフェミニストになりました。女性問題への取り組むのはより重要な問題にとって邪魔で、他のすべてが解決した後に取り組まれるべき付属的な問題と信じていた頃から、女性の問題は重要で、中心的な問題であると気づくまで。貧困、平和、持続可能な発展、環境、健康—どんな問題であっても、ジェンダーのレンズを通して考え、女性にとってもその解決方法が良い方法であるということを考えることなしに、解決することはできません。

 

ここに至るまでに30年かかりました。でも、遅咲きでも構わないのです。フラワーショーに間に合いさえすれば。

 

Jane Fonda is an actor, activist, and writer.