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億万長者の女優が賃金格差革命を導くことはない

The Wage Gap Revolution Will Not Be Led by Millionaire Actresses

億万長者の女優が賃金格差革命を導くことはない

 

原文はこちら。http://jezebel.com/the-wage-gap-revolution-will-not-be-led-by-millionaire-1776855999

 

16/5/20

Stassa Edwards

 

土曜に、スーザン・サランドンが賃金差別についての個人的な経験を明かした女優の一人に加わりました。ヴァニティ・フェア誌は、サランドンはカンヌのWomen in Motion会議に出席し、ジェニファー・ローレンスがLennyに寄せた賃金差別についてのエッセイに感銘を受け、自分の経験を「明かす」ことにしたと報じています。「著名な男性俳優二人と映画で共演することになり、同じだけの賃金をもらっていると思っていました」サランドンは会議で語りました。「しかし、途中で、彼らは私よりもずっと多くもらっているとわかったのです。」

彼女は続けます。「私のエージェントは、私には男性の共演者と同額の賃金を受け取る価値がないと言われたといいます。彼らは有名で、年上だったからという理由で。広報活動をする段になって、制作側は私に、男性の共演者たちよりも多くのことをやらせたがりました。だから問題だったのです」

そして、サランドンもジェニファー・ローレンスの告発以降、お決まりとなった2つのステップを踏みました。まず、自分自身を責めます。「私が悪かったのです」サランドンは交渉において譲歩しました。「私のエージェントの失態でもあります。大事なところで踏みとどまり「ちょっと待ってください」と言わなかったのですから。ジェニファー・ローレンスのエッセイが興味深かったのは、ローレンスが「もっと粘るべきだった」と言っているところです。それが重要なのです。もしあなたがそれを欲するなら、闘う必要があるのです。」

そして、超金持ちの人たちが賃金ギャップについて議論しているのは見ていて愉快なものではないと認めつつも、しかし、非常に重要なことだと言います。「つまり、スター俳優とシリアの難民を比べてみて、全世界の半分が飢えているときに、もう半分の人々が、自分が他人に比べどれだけ多くの富を得ているかの問題を論じているのは馬鹿馬鹿しくもあります」とサランドンは認めます。「しかしそれは、多くのお金を稼ぐことを恥じるべきであるということではありません。受け取ったお金は、受け取るリスペクトと等しく、だからこそ重要なのです。お金の問題ではありません。リスペクトの問題です。」

 

ハリウッドでの賃金ギャップの経験についての女優たちの物語にはお決まりの型があります。女性が、製作や広報でより大きなとは言わずとも、等しく仕事を負担しているのに、男性がより多く賃金を受け取っているという現状を認めることから始まります。そして、ごく少数の女優たちが現状の問題を告発しますが、それは曖昧で、彼女たちの仕事の価値を不当に低く見積もっているのは実際には誰なのか、問題の人物を特定することはありません。(ローレンスのエッセイは、彼女の共演者であるJeremy Renner, Bradley Cooper, Christian Baleがローレンスよりも多額の賃金を受け取る交渉に成功したことを称えていますが、彼らが誰と交渉しているのかを明かしてはいません。)ヴァニティ・フェア誌は、サランドンが1998年のTwilight(脚本・監督をRichard Bentonが務め、ひどく傲慢で人種についても無神経なScott Rudinによって制作された)の時のことを言っているのではないかと推測していますが、彼女自身はどの映画を撮影したときの話か明かしていません。製作と財政において権力をもつ人々に問題があると言うのではなく、自己責任というアメリカ的なカルトの証人となり、「十分に闘わなかった」「十分に強く求めなかった」という空虚なマントラを唱えるばかりです。ローレンス、エマ・ワトソン、パトリシア・アークエット、その他の多くの女優たちがみんなそう語ります。

サランドンの即席の意見表明は、ポップ・フェミニズムの最大の過ちの1つの典型です。つまり、スーザン・サランドンやシェリル・サンドバーグなどが直面している問題は、最低賃金で働く女性たちの問題と、全く同じではなくとも、通ずるところがあるという考えに基づき、金持ちで力のある女性を賃金ギャップ問題の顔として宣伝することです。これは、私たちの国を1世紀以上も苛み続け、現在に至っても人気の衰えないトリクルダウン理論を、プログレッシブなセレブリティの顔で、リベラルが擁護するようなものです。つまり、世界の多数の人々がよりひどい状況にある時に、金持ちが文句を言うべきではない、「けれども」、ハリウッドで力のある女性たちが賃金ギャップを縮めることは、いずれより広い範囲でのジェンダー平等に繋がるのだから、やはり金持ちも文句を言うべきなのだ、という。

それはサランドンには役に立つでしょうし、普遍的な(量に換算できない)リスペクト(サランドンの話では、お金と同じだけれども全く別のものである)といった価値に訴えます。「受け取ったお金は、受け取るリスペクトと等しく、だからこそ重要なのです。お金の問題ではありません。リスペクトの問題です。」とサランドンは言いました。これは不思議な区分です。リスペクトは、金銭的な価値をもっているけれども、それだけでもない、絶対的な価値とされます。サランドンが気にかけつつ、同時に、全く気にしていないものでもあります。

「これはリスペクトの問題だ」ということは問題を避ける手段なのです。もしサランドンの言うように、賃金がリスペクトのサインなら、私たちはお金の話をするべきなのです。「リスペクト」が受け取った金額によって具現化するその具体的な方法や、リスペクトとか適正な金額の賃金は、トリクルダウンしないかもしれないことについて話さなければなりません。しかし、そういったことについて話すと、サランドンの持ちだした例(裕福な女優とシリア難民)において顧みられない、その間にいる多数の女性たちこそ、賃金ギャップに酔って最も不利益を被っていることを直視しないといけなくなります。女優とシリア難民という極端な例を出すことで、男性の78%しか稼いでおらず、その賃金は生活に十分な額にならない、貧困層、ワーキングプア、中産階級の女性たちを巧妙に避けます。そういった階層の人たち、有色の女性たちにとって、賃金ギャップは、深い谷のように感じられるものです。

しかし、ローレンスがエッセイを出版してから、最も高価なものの価値を認めるということは本質的に重要なのだという考えのもと、女優たちがますます賃金格差問題の顔となってきています。2月に、タイム誌はこう書いています。「…賃金格差問題に関心をもつ人たちが、即座にローレンスをシンボルとして採用したのには理由があります。もし、最も著名なセレブリティの一人が、同一労働同一賃金を実現できなかったとしたら、他の女性達の仕事の評価に何の関係があるのでしょうか?」ローレンスのしごとについてのこの問いは修辞的な疑問で、筆者は明らかにこう言っているのです。無関係であると。ローレンスの賃金の話に関係があるのはローレンスだけです。すでに社会がその価値を認めている金持ちの女性をより大事にすることは、貧困層や中産階級の女性たち、とりわけ有色の女性たちには関係がありません。経済的平等はトップダウンで実現するものではないのです。どちらかといえば、ボトムアップであるべきです。まず、アメリカで最も経済的に疎外されている女性たちがより稼げるようになれば、皆が今よりもっと稼げるようになります。しかし、私たちは、トリクルダウンの物語に甘んじ、最も賃金格差の影響を受けている女性たちに、あなた達の番がくるのを待って、と言っているわけです。ハリウッドの賃金格差が解決したら、あなたたちの事を考えるからね、と。

ローレンスやサランドンによってこの問題に注目が集まったことは予想できることでした。セレブリティの語りには大きな魅力があります。PVを稼ぐことができ、SNSで広く拡散されます。セレブリティが、長きにわたって存在し続けている差別問題や、草の根の運動に人々の関心を集めることができるというのも否定はできません(たとえば、シェールガス掘削のための水圧破砕に反対するマーク・ラファロ、エイズについての意識向上に貢献したエリザベス・テイラー、アメリカ・インディアン運動を支持したマーロン・ブランドなど)。そしてローレンスの例は—少なくとも彼女の著名人としてのブランドは—生活保護で生きる名も無きシングル・マザーの例よりも、人々が共感しやすいのも確かでしょう。

セレブたちが、こういった話題を非常に保守的な形で語るとき、人々はより簡単に感情移入することが可能になります。お金について直接話すのは女性にとって不適切だという規範を破らず、彼女たちの言葉はその具体的な中身よりも影響力のほうが重要だと予防線を張るのです。たとえば、ローレンスやサランドンの、平等な賃金が得られなかったのは自分たちの失態であるという主張を例に取ってみましょう。「十分に闘わなかった」とローレンスはエッセイで言います。シェリル・サンドバーグの『リーン・イン』にインスパイアされた主張と言えるでしょう。女性の労働の価値を低く見積もる超巨大企業や文化的なシステムではなく、女性が経験している経済的差別は、女性が悪いのだと。「リーン・イン」運動についてリンダ・バーナムが述べたように、「それは1%の人々のためのフェミニズム」であり「ガラスの天井ばかり見上げて足もとをみない」のです。(サンドバーグすら、夫の死後、もともとのリーン・イン哲学から少し距離をとっているというのは注目に値します。)

 

私たちが賃金ギャップについての議論において女優たちに頼ることができない理由の1つは、彼女たちこそ、人からの好かれやすさと共感が支配する気まぐれな経済システムの象徴であるからです。彼女たちの価値は、大衆の見方によって変動します。サランドンやローレンスは、他の誰も彼女たちの仕事を代わることができない、代替不可能な存在であるというユニークな立場から、プロデューサーやディレクターと交渉できます。プロデューサーやディレクターは、他の誰でもなくサランドンやローレンスを映画に出したいと思っており、彼女たちのブランド、見た目、スターとしての個性を利用したいと考えています。House of Cardsのロビン・ライトが共演者ケヴィン・スペイシーと同一賃金を要求したという最近のニュースを例に取ってみましょう。「完璧な範例でした。男性と女性が対等に描かれる映画やテレビドラマは多くありません。House of Cardsの話の中では、男女は平等なのです」ライトは、Netflixシリーズのプロデューサーたちに対し、問題を明るみに出すと脅したところ、彼らは同一の賃金を払うことに同意したと明らかにしています。つまり、問題を解決したのはライトという個人の影響力であったということです。

セレブリティは、普通の仕事に応募する普通の女性ではありません。彼女たちの賃金は、他の普通の人達の賃金のようには、落ち込んだり、引き下げられたりしません。「もっと必死に闘う」とか、そういった自己責任の語りを構築することは、あなた自身を演じることがあなたの価値の一部であるといった場合には、とりわけ簡単で、真実として信じられやすいです。しかしそれは、女性がもっと自信を持って積極的になれば、ジェンダーに基づく経済的な格差は消えてなくなるという考えを、もう一段、砂糖でコーティングしてごまかすようなものです。

今日の大衆文化は、「口火を切る」とか「明らかにする」ことを、それ自体が、不平等を魔法のように消してしまう魔術のようなものと人々に思い込ませます。女優たちが主張し、フェミニストを自称します。彼女たちは、個人的で、他の人を「エンパワーする」経験を語ることで、褒め称えられます。しかし、サンドバーグがそうであるように、彼女たちは賃金格差自体を作り出しているシステムやイデオロギーを特定し、批判するというラディカルな営みからは距離を取り続けているのです。彼女たちも、そういうシステムやイデオロギーから利益を得ているからです。

サランドンやローレンスや他の女優たちが、賃金の不平等について話すのをやめるべきだと言っているのではありません。私が言いたいことは、ハリウッドの賃金ギャップの物語を、あらゆる女の物語としてフェティッシュ化するのをやめようということです。女王が家父長制を倒せば、私たちみんなもできる、というような。ネット上の言説が取りこぼしているリアルな問題があります。男女の賃金格差のなかで生き、苦しい経済的決断をしている女性たちのことです。有名人のフェミニストが擁護するトリクルダウン経済はフェミニズムとはかけ離れています。それは本質的に保守的な解決策で、エンパワメントや好ましさ、リスペクトといった空虚な言葉で正体を隠しているのです。