feminism matters

英語(とたまに韓国語)のクィア・フェミニズム系記事の翻訳の貯蔵庫。

うん、私はデブ。それでいいじゃんって言ってやった。

Yes, I’m Fat. It’s O.K. I Said It.

うん、私はデブ。それでいいじゃんって言ってやった。

 

2016/2/6

Sarai Walker

 

原文はこちら。http://www.nytimes.com/2016/02/07/opinion/sunday/yes-im-fat-its-ok-i-said-it.html?_r=1

 

「なんでまた『デブ』(fat)なんて言葉を使うの?」

スカイプ読書会の集まりにいたある女性が私にこう尋ねた。ワインを飲み、スナックをつまみながら、私の小説について話していた女性たちは、私の返答を待ちながら微笑んでいた。読書会の参加者の画面に私の顔が映っていることを意識して、私は恐怖を隠して笑い、そして彼女と参加者に答えた。

読者や記者から、なぜFワードを使うのかと尋ねられたことはたくさんある。私が使うそういう言葉にひっかかるとか、口にし難いと言われることもある。

人々は私が自分の小説のヒロインだけでなく、自分の体のことをおおっぴらに「デブ」ということに動揺するようだ。そういう人たちの多くは、デブというのは侮辱以外の何ものでもないと思っているらしい。だから私は、デブ・アクティヴィストはこの言葉、ひいてはその言葉で表現される身体に対するスティグマをなくすために、誇りを持ってこの言葉を使っているのだと何度も何度も説明してきた。

以前、私はこういう議論を熱心にしてきた。でも、だんだん幻滅してきたということも否定出来ない。何ヶ月もたった2文字の無害な形容詞に対する人々の不安に直面し、デブという言葉だけでなく肥満それ自体が、言葉にしてはいけない恐ろしいものとされているということは、火を見るより明らかだからだ。

先月、マテル社が新しく「ぽっちゃり」バービーを発売した。「ぽっちゃり」というのは、「ちょっと太っている」女性に対する婉曲表現に過ぎない。しかし、もし「デブ・バービー」なんて商品名にしていたら、マテル社にとっては命取りになっていただろう。タイム誌の特集記事では、マテルの本社で試験のためにおもちゃで遊ぶ小さな女の子たちが、より「太め」のバービーのことを笑っていた。この新しいバービーは、実際には、女性の平均的なサイズに似せた人形なのだが、非現実的な体型をしたオリジナルのバービーに比べれば大きく見える。女の子たちは新しいバービーはデブだと思ったようだが、その言葉を大人の前で使うことは躊躇した。ある女の子は「デブ(fat)」とは直接言わず「FとAとT」とスペルを言ってみせた。他の口にしてはいけない言葉と同じように。いわく、「バービーを傷つけたくないから。」

アメリカ人の頭のなかは肥満のことでいっぱいだが、アメリカの文化シーンにおいては、本当に太っている人々の姿はたいてい目に見えない。少数の例外を除き、太った人の多くは、メディアやポップ・カルチャーは彼ら彼女らの身体を憎悪していると知っている。「ザ・ビゲスト・ルーザー」のような番組(太った体型の人たちが減量し、その結果を競う)で、コンテスト参加者がサーカスの動物のようにパレードするのも、全米で放送される減量のための商品のコマーシャルに出ている有名人を見ているからだ。アメリカ人は惨めなデブが見世物になるのを期待し、楽しんでいるので、この物語に挑戦するのはラディカルな行為である。

私たちはどんなことが起きても驚かない時代に生きているかもしれないが、自分の著作について人と話しながら、私は、300ポンド(約136キロ)の女性が、自分の体を愛することを学ぶ——減量することなしに!——物語というのは非常に大きなタブーなのだと学んだ。この物語を書くだけでなく、自分の存在を恥ずかしがったり自分の体を隠したりせず、太った女性としてあえて公に出るようになってから、私は意図せずして「女性が太っていたって別に何も悪く無い」という革命的な考えのアンバサダーになっていた。小説家よりはセラピストや栄養管理士に聞いたほうがいいんじゃないかというような質問も多く受けた。ダイエットの経験や身体イメージについての過去の葛藤についても。ネット上で太った女性に嫌がらせすることに夢中なクソリパーにも絡まれた。

アメリカで私の本が出版されて数カ月後、私はブック・ツアーのためにオーストラリアに向かった。オーストラリアに到着して初日に受けたラジオでのインタビューで、そこに参加していたもう一人の小説家であるWill Selfは、私のトークを乗っ取り、いかに太った人たちは不健康で醜いかを私に講義し始めた。身体のサイズと運動と食事の相関関係について話すためにホロコーストさえ持ち出し(アウシュヴィッツから出てきた人の中に太った人なんて誰もいなかった、と薬物カウンセラーの言葉を引用しながら彼は言った。)、「統計的に、イギリスの自分の住んでいる地域では、2030年までには誰も歩けなくなっているだろう」と主張し、来るべきデブの災厄についての恐怖を喧伝しようとした。

肥満についての専門家と議論した別の番組では、リスナーからの「デブでも本当にいいんだろうか」という質問に答えなくてはならなかった。シリアの紛争についての議論の直後に。

オーストラリア・ツアーの最後のイベントは、「危険な思想フェスティバル」でのスピーチだった。シドニーのオペラハウスのステージで、私は自分の経験を話しながら、太っていても構わないのだという主旨のトークをした。数年前、私はJim Morrisonとの1969年のインタビュー映像へのリンクをツイッターに投稿したことがある。そこで彼は「デブは美しい」と言った。リンクを投稿した直後、ある友人は怒りながら、肥満は高血圧とその他の健康問題を起こすのだから、デブは不健康だとリプライしてきた。「デブは異常症候群」と私が名付けたものの例として、こういう反応のことをトークの聴衆に話した。どんなに懐が広く、ラディカルに物事を考える事のできると自分で思っている人でも、肥満について肯定的に話すと激怒するのだ。

観客とのQ&Aの時間には、一人、また一人と立ち上がり、体重についてネガティヴなコメントをした。私は松明を持った村人に囲まれている魔女になった気分だった。自分と異なる考えや思想の祝祭に参加するような都会の洗練された人々にとってさえ、肥満を悪以外のものとして捉えることは、超えられない一線を超えることだったようだ。私の小説の中で主人公が気づいたように、人はただ肥満であるというだけではないのだ。太った身体は常に修正しなければならないというプレッシャーに晒されている。

ステージ裏で、イベントのモデレーターは私に「大丈夫ですか」と尋ねた。ツアー中、誰かが私を脇に呼んで、こういう質問をしてくるのは初めてじゃなかった。「大丈夫です」と私は言ったが、その夜、ホテルでベッドに潜り込み、もう自分がプロのデブとして振る舞う必要が無いのだということに安堵した。家に帰って隠れてしまいたかった。そんな風に思う自分が恥ずかしい。太った女性に声を与えようとする小説を書いておきながら、自分の声を使うことに疲れてしまった。自分がまるで観客の娯楽のために見世物にされるフリークショーのデブ女になったような気分だった。

「肥満は悪」という人口に膾炙するレトリックに挑戦し、太った人にとっての一番の問題は自分の身体ではなく、社会から向けられる憎悪と嫌がらせであると主張する全ての人にとって、肥満についての議論の最前線は恐ろしい場所だ。一方には、数十億ドル規模の減量・ヘルスケア産業と凝り固まった偏見があり、他方には相対的に力のないアクティヴィストたちの小さなグループがある。

肥満についての議論の核にあるのは、健康についての専門的な懸念である。まるで、ある集団の人間としての尊厳が認められるかどうかは、その構成員が健康的とみなされるか否かにかかっているかのようだ。でも、健康の問題はそれほど明確ではない。「どんなサイズでも健康」運動は、体重をベースとする偏狭な健康へのアプローチに正当な批判を展開している。

太った人たちの顔がほとんど映らない(匿名だったり、首から上が切られていたり、モザイクがかけられていたりする)文化においては、人に嫌がらせをして喜ぶ人や女性差別者、肥満を糾弾する活動家にとってだけでなく、自分には見識があると思っている人にとっても、自分の意見をいう太った女性は脅威的な存在なのかもしれない。匿名の、首から上のない太った人の一人になったらどんなに簡単だろうと時々思う。でも、首から上がなければ、声を上げることもできないのだ。