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feminism matters

英語(とたまに韓国語)のクィア・フェミニズム系記事の翻訳の貯蔵庫。

多様性、政治的正しさ、そして言語の力

カルチャー 表象

Diversity, Political Correctness and The Power of Language

多様性、政治的正しさ、そして言語の力

 

Karnythia

2016/4/30

 

原文はこちら。

https://mikkikendall.com/2016/04/30/diversity-political-correctness-and-the-power-of-language/

 

知っての通り、私はフィクションのための多様性コンサルティング(センシティビティ・リーディングとも言います)をしているのですが、いわゆる「他者」について描こうとするとき問題になるのは、その「他者」がいかに自分のことを語るかということです。彼らのコミュニティや文化、そして人種や人種主義について彼らはどう語るのか。

 

多くの場合、私は目新しいことをしているわけではなく、著者がキャラクターを掘り下げるのを手伝ったり、アフリカ系アメリカ人英語の間違いを指摘したり、あなたの書いたものは滅茶苦茶だと言わないといけない時もあります。最後の点について著者と話すのはぎこちなく、感情的な会話になることもあり、楽しいものでは決してありません。

 

私の批判は当然私の主観、私の生きた経験や受けてきた教育に基づくものです。私のやっていることには価値があると思いたいし、私の手を経て世に出た作品が成功してほしいと思っています。この記事は、著者がちゃんと話を聞いてくれるときの話ではありません。彼らがちゃんと話を聞いてくれない時の話でさえありません。

 

これは、差別的な言葉がフィクションの中で繰り返されるのを見たくないという人は、要するに政治的正しさを要求し、検閲を求めているのだ、という考えについての記事です。

 

自分とは違う人種、性的指向、宗教、ジェンダー・アイデンティティをもったキャラクターを自分の作品に登場させたい?いいでしょう。でも、そのキャラクターを世界に解き放つ前に、基本的なリサーチをしてください。そのコミュニティが直面している困難や、どんな語りが彼らにとって攻撃的なものとなり得るのかについて、基本的なことを知ろうとする労力を払ってください。あなたの書いているものは、そのコミュニティを抹消したりその人間性を貶めたりするために使われてきた言葉を使っていませんか?

 

いい加減に書かれたものを「アートだから」と正当化するのは簡単です。そうですね、あなたのやってることはアートなんでしょう。あなたのアートは攻撃的になり得るし、あなたのアートは有害になり得るし、あなたのアートは間違っていることだってあります。あなたには創作の権利がありますが、批判を受けないで済む権利はありません。あなたのバイアスが問われたり、あなたの創作が失敗していると言われないで済む権利はありません。

 

あなたのことを知っていて、愛していて、あなたが本当に本当に良い人だと信じているからこそ、反射的にあなたのことを擁護し、「あなたの創作の効果よりもあなたの意図のほうが大事だ」と言ってくるような友達は、あなたのためになりません。

 

率直に言って、中傷を大したことはないと見逃したり、きちんと掘り下げられたキャラクターを作るよりもありふれた差別的言辞を使うような人は、あなたのアートによる影響を受ける人たちではないでしょう。彼らは、あなたと同じく、その痛みが全くわからないからこそ、善良な意図があるなら、差別的な言葉のインパクトを減らすことができると思い込んでいるのです。

 

そういう友人たちは、あなたは良い人で、好かれるに値する人で、なんであなたが批判を受けているのかじっくり考察する手間をかけることなく、性急にあなたを擁護するでしょう。そういう人たちは、あなたの作品を読む人は、著者であるあなたのことを知らない人が大半であり、そんな有害な行為の裏に善良な意図があると想像する理由なんて全く無い人たちであるということを忘れています。その友人たちはきっと自分では認めはしないでしょうが、あなたの作品が利用している「他者」の理解に問題のある人たちでしょうよ。

 

そういう友人たちは、あなたの作品の潜在的な読者はあなたとその友人が共通項として持っているアイデンティティをシェアしている人たちであって、あなたが描こうとしている「他者」はおそらく読者層には存在しないか無視してよいほど小さな割合しかいないと思い込ませてくれるでしょう。この問題の大部分は、「他者」は読まない、という思い込みにあるのです。彼らはアートを消費せず、自分たちがどう表象されているかについて声をあげる権利などないという思い込みです。他者を差別的に描くことは、周縁化されたコミュニティを読者の輪から追い払うための鍵となるわけです。

 

私はシスジェンダーの黒人女性で、シカゴで生まれ、育ちました。自分のコミュニティに対してどんな言葉が攻撃的かということについては自信を持って話すことができますが、黒人のトランス女性に対してどんな言葉が攻撃的なものになるかについては、確実なことは言えません。私はトランスではないからです。

 

私がトランスのキャラクターを描いて、トランスのコミュニティの人に「最悪だ」と言われたら?私は口を閉じ、そのコミュニティの人たちの話を聞き、間違いを直すために最大限努力しなければなりません。それが作家であることの仕事の一部です。

 

誰もに好かれるものを書こうとしているわけではありません。しかし、「あなたの物語の終わり方は好きじゃない」と「あなたの物語は、私たちのコミュニティを傷つける語りに加担している」の間には大きな溝があります。この2つをどちらも似たようなものだと片付け、そんな批判は無効だと言う人もいるでしょう。

 

そんなことを言う人は本当の意味での友人とは言えません。あなたを愛し、本当に成功してほしいと思っている人なら、あなたが改善できるよう手助けをしてくれるはずです。それが痛みを伴ったとしても。それが友情に傷をつけることになったとしても。本当の友人は、何が善で何が悪か、正直に言ってくれるはずです。あなたを愛している人は、あなたが誰かを傷つけるのを放っておくわけはありません。あなたも、あなたが誰かを傷つけていることについて、友達に「問題ないよ」と言ってもらおうとするべきではありません。

 

重要なことは、どうすれば差別的で有害な表現を避けられるかということについてのリソースは山ほどあるということです。たとえば、ずるいですが簡単な方法として、TVTropes.orgを使ってあなたのキャラクターデザインの問題をチェックすることができます。あなたが描こうとしているコミュニティの人に頼むことだってできます。

 

でも、あなたがそのコミュニティの人を誰も知らず、あなた自身もそのコミュニティの一部でもなく、そのコミュニティの誰かにコンタクトをとるつもりもないとしたら?多分、あなたはそもそもそのキャラクターを書くべきではないのです。あなたの作り出す他者のコミュニティの貧相な表象は、多様性を増すのに貢献するどころか、あなたが内面化したバイアスをあらゆるページに振りまくことになる可能性が高いからです。

 

私たちは、自分の物語のなかで自分自身を英雄として描くことが好きですが、他人のストーリーのなかでは悪役になっていることのほうが多いのです。そんな意図がないときでさえ、誰かを傷つけていることがあります。差別は物理的・身体的な暴力のことだという奇妙な神話があり、もちろんそれも酷いのですが、身体的な暴力の奥底にはその兆候があるのみです。

 

何世代にも渡って維持されている本当に有害な差別的言辞は、ずっと密かなものです。黒人が暴力的な不良だったり、黒人の母親は愛情が欠乏している存在だったり、トランスのキャラクターが悪人だったり、愛ゆえに殺されるレズビアンだったり、家族にとっての重荷として障害者が描かれる時に、その姿を表します。非常にありふれたものに見える個々のストーリーの中で、シスでなく、白人でなく、ストレートでなく、健常者ではない人たちを、平等ではないどころか、存在に値しないものとして描いてしまうという形で現れるのです。

 

面白い物語を書いて、その作品に多様性を持たせるというのがあなたの心からの、正直な意図なのであれば、リサーチの手間をかけようと思うはずではないですか?批判に耳を傾けようと思うはずではないですか?自分が差別を悪化させないように、システムに挑戦しようと思うはずでは?

 

作家には新しい世界を創る力があります。だから、この古い世界の間違いをなぜ頑なに繰り返そうとするのか、立ち止まって自分に問うてみるべきではないですか?

 

そうです。あなたには何かを生み出す力、あなたの読者の見方を変えてしまう力がありますが、その力を持とうとするのなら、責任も持たなければなりません。そうでなければ、多様性を向上させることなどできず、あなたはただゲートを閉じ、「他者」は主体性をもった人々ではなく、あなたが何かを映し出す客体にしかならないでしょう。