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コール・アウト文化の中毒性はどこからくるのか

What Makes Call-Out Culture So Toxic

コール・アウト文化の中毒性はどこからくるのか

 

2015/3/4

Asam Ahmad

 

原文はこちら。 http://www.filmsforaction.org/articles/a-note-on-callout-culture/

 

コール・アウト文化とは、革新派、ラディカル、活動家、コミュニティ・オーガナイザーなどの間にある、他人の抑圧的な振る舞いや言語の例やパターンを公に名指しで批判する傾向のことを言います。性差別的、人種主義的、健常主義的などなどの言動に対して、コール・アウト(批判)されることになります。コール・アウトは公に行われる傾向があり、ゆえにある種の机上の空論的な、そしてアカデミックなアクティビズムのあり方を生み出すことになります。つまり、コール・アウトそれ自体が目的化するのです。

 

 

コール・アウト文化を中毒性の高いものにするのは、頻度よりも、その性質や、コール・アウト自体のパフォーマンス性にあります。とくに、twitterやfacebookなどオンラインの場では、批判はもはや2人の個人の私的なやり取りではありません。それは、自分がいかに機知に富んでいて、自分の政治が汚れなき純粋さをもっているかを見せびらかす公のパフォーマンスです。実際、コール・アウトの内容よりも、パフォーマンスのほうが重要なのだと感じさせるような場も度々あります。だから、「コール・イン」が「コール・アウト」の代替案として提案されています。コール・インは、何か間違いをしてしまった人に私的に声がけをし、それを指摘することを見世物化せずに問題のある振る舞いについて言及することです。

 

コール・アウト文化の中では、私たちが「コール・アウト」している相手も人間であり、違う立場に置かれた自分とは違う人は、学び、成長するために、自分とは異なるアプローチのほうが受け入れやすいかもしれないということが、容易に忘れられてしまいます。たとえば、私が目撃してきたコール・アウトは、大抵の場合、何かしら間違いをしたとされる人は、コミュニティにとっての部外者扱いをされることになりました。あたかも、コミュニティのメンバーと、友人と、通りすがりの人(その人だって誰かの友人でしょう)の間には何の違いもないかのように、1つの行為が、その人の全人格に対して判断しても良いという根拠とされます。コール・アウト文化は、結局、監獄-産業複合体が罪と罰について示していること—つまり、相手を複雑な物語や歴史を持っている人間として扱うのではなく、その個人を消し、捨てること—を真似することになります。

 

コール・アウト文化だけでなく、革新派のコミュニティが、誰が仲間で誰が敵かを監視し、定義しようとするやり方の中に、ささやかな全体主義の傾向があるというのは、誇張ではありません。しばしば、この仲間の間の境界線は、適切な言葉や専門用語を使っているかどうかを通じて引かれますが、そういった言語は常にアップデートされるもので、常に最新の言葉を知っておくというのは不可能です。それに、説明責任についての語彙をマスターした誰かが、その語彙を利用して、自分の行為を正当化しはじめたらどうなりますか?反抑圧の言語のエキスパートが、その語彙を使って抑圧的な振る舞いをし始めたら、どう問題を指摘しますか?こういうことは、革新派の間でほとんど日常的に起こっているにもかかわらず、私たちは、こういった捻じれた権力の行使のあり方を描く語彙を持っていません。反抑圧主義とでもいいましょうか。

 

コール・アウト文化においては、ユーモアが重要な役割を果たしています。ウィットに富んだ言葉のやり取りなんて抑圧と闘うための場には必要ない、と言いたいのではありません。ユーモアは、抑圧された人たちに利用可能な便利な道具になりえます。しかし、人がその人の特権的なアイデンティティ(白人である、シスジェンダーである、男性である、など)に回収され、それを根拠に笑いの対象になる時、あたかもそれぞれ個人の社会的な立場というのは、その人のアイデンティティが示すところのシステムとぴったり重なると言っているかのようです。つまり、それぞれの個々人が抑圧のシステムと同義になり、これが構造の分析を、道徳的なジャッジに変えてしまうのです。コール・アウトにおいて、狭義の意味でのその人のアイデンティティのみが、その人の全てであるかのように語られることが多すぎます。

 

どんな問題を指摘しようとする上でも、その相手を社会的な特権を具現化した存在に回収すること無く、問題のある振る舞いについて指摘する方法はいくらでもあるでしょう。相手に対する情があってクリエイティヴなやり方、その人が利益を得ているシステムそれ自体として個人を見るのではないやり方がたくさんあるはずです。そういった他の文脈に注意することは、私たちがリアルにかかえているトラウマを、私たちを抑圧しているシステムを代表している(と私たちが想像するところの)人の心理に、すべて明かすことを拒むということでもあります。オンラインでの社会的なネットワークの性質を考えるに、コール・アウトはすぐにはなくならないでしょう。しかし、コール・アウトが何を達成するためのものだったのかというのを思い出すことは、人々の振る舞い、そしてコミュニティのダイナミクスに、私たちが必要だと信じる実質的な変化を起こすための長い道のりにおいて、必要なことでしょう。

 

 

Asam Ahmad is a poor, working-class writer, poet and community organizer. His writing tackles issues of power, race, queerness, masculinity and trauma. He believes in the ineffable and the creaturely, that the sublime and the abject are never too far apart. His writing and poetry have appeared in CounterPunch, Black Girl Dangerous, Briarpatch, Youngist and Colorlines, among others. He is a co-founder of the It Gets Fatter project, a body-positivity project by qtpoc for all people of color. His poem “Remembering How to Grieve” can be found in Killing Trayvons: An Anthology of American Violence. http://asamaccchhhmad.tumblr.com/