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泡風呂のセルフケアを越えて:コミュニティケアという理想に向けて

Beyond Self-Care Bubble Baths: A Vision for Community Care

泡風呂のセルフケアを越えて:コミュニティケアという理想に向けて

 

原文はこちら。https://www.autostraddle.com/on-being-a-burden-whats-missing-from-the-conversation-around-self-care-385525/

 

2017/7/20

Abeni Jones

 

去年、とくにしんどかった時期、鬱のせいで3週間ずっと自分のアパートから出ることができませんでした。テイクアウトの箱、汚れた洗濯物、惨めさが山のように重なり、でも一人暮らしなので誰もそんな惨めな状態の私を知る人はいませんでした。無茶苦茶になってしまった部屋と自分が恥ずかしく、助けを求めることも恥ずかしく思いました。そうでなくても忙しかったり、それぞれに苦しんでいる友達に迷惑をかけたくありませんでした。余分に感情労働をさせたくなくて、声をかけられませんでした。友人たちのお荷物になりたくなかったのです。

でも私は、私が与えられる以上のものが必要なんです。実際のところ、お荷物。そして、それで構わないんです。

ようやくFacebookを開いて、うつ病関連でのヘルプを求める謎めいたメッセージを投稿したところ、私が受け取った最初のコメントは「落ち込んでいる時に自分を大切にする方法」というタイトルの記事へのリンクでした。私は「落ち込んでいる」のではなく闘っているんですが。それでも、一応その記事に目を通しました。お風呂に入る、よく寝る、部屋を掃除する、ヨガ教室に行く…どれも良いアイディアに見えましたが、どれも私にできることではありませんでした。私は何もできなかったんです。自分の面倒を見ることさえ、できなかったのです。

毎週のように、セルフケアを宣伝するまとめ記事がソーシャルメディアのフィードに流れてきます。アクティヴィストのためのセルフケア、フェミニストのためのセルフケア、お金のない人のためのセルフケア、忙しい人のための、先生の、治療者の、有色人種のための…。Autostraddleで「セルフケア」と検索すれば、たくさんの記事がヒットします。私は、セルフケアの重要性を軽視しているわけではありません。セルフケアはとても重要で、その必要性が広く理解されるようになってきているということは素晴らしいことです。でも、セルフケアは完全でもありません。

セルフケア運動の批判というのも溢れています。でも、セルフケアという言葉が問題なのは、それがすでに忙しい人にさらなる時間と支出を要求するからでも、私たちがやっている運動が命を与えるのではなく損なっていると決めつけているからではなく、障害をもつ人がすでに行っている普通の、日常のことを覆い隠すからでもありません。そういう批判も重要ですが、十分ではありません。

私や他の障害のある人が生き延びるために、ケアが、私たち自身によってなされるものではない、ケアが必要です。なぜなら、状況がひどく悪くなると、私にとってはセルフケアというのは字義通り不可能になるからです。そういう瞬間に、私に必要なのはコミュニティケアです。

私が死なないようにするために必要なことを進んでやってくれる優しい仲間のサポートネットワークが必要です。私がFBに謎めいたメッセージを残した時に、ただ「いいね」を押したり「元気になってね!」とメッセージを残すのではなくて、様子を見に来て、私にほんとうに必要なものが何か確認してくれる人が必要です。夕飯を準備してくれる人、洗濯をして、アパートをきれいにしてくれる人、セラピーに行けるよう勇気づけたり、車を出してくれたりする人が。

革新派の運動の中でも互いを大事にしようということは教わりますが、そこでの前提は、ギブアンドテイクです。私があなたの面倒を見て、あなたも私の面倒を見る。私は他の人の世話をするのは好きですし、可能なときには最大限そうするようにしています。お金のある時は、コミュニティの中で困っている人に寄付するし、病気の友達のためにご飯を買って届けたりするし、誰かを慰めるために外に連れ出すこともあります。そうでなくても、友達を招いたり、必要な人のためには感情労働もするし、プレゼントするためにアート作品を作ったり優しい言葉をかけたりもします。でも、それは釣り合いの取れたやりとりとは限りません。たまに、いやかなりの頻度で、私は私が他の人に与えられる以上のケアが必要になるのです。

セルフケアという言葉が私たちに教えるのは、他の人の重荷になるな、ということです。なぜなら、セルフケアは自分が自分のためにできることにフォーカスしているから。私たちは、自分に必要なものはすべて自分が持っていると、自分を変えたり豊かにするための力は自分の内側にあり、それをうまく使いこなせばいいだけなのだと言われます。自分1人で自分を苦しめる悪魔をやっつけ、リフレッシュした気持ちでまた闘う準備ができるのだと。セルフケアについての記事に書いてあることを全部やるのは、多くの人にとって不可能だし、そのうちのたった1つのことさえできない人もいます。人の迷惑になること、荷物になることを悪とする文化の中で、人に助けを求めるということはどの程度現実的でしょうか。

「コミュニティケア」という言葉が出てきたのは最近ですが、この言葉が使われるときには、私たちが集団として行う運動の仕事のことを意味するのが普通です。「コミュニティ」全体のケア、ということのようです。「コミュニティケア」と言うときには、政治的な目標やより公正な立法のためにデモしたり更新したりすることや、「〜〜コミュニティのアライになるにはどうすればいいか」ということや、低所得者の居住区のインフラを向上させる、など。これらのことは非常に重要です。でも、私がコミュニティというのを考える時、私はもっと小規模で、互いに面倒を味合える人と人の間の社会的なネットワークのことを考えます。私は、コミュニティがそのコミュニティの中の個人を、とくにその人が自分で自分のケアをできないときに、世話するというのはどういうことか、というのを考えたいのです。

私が自分にとっての最良の人生を思い浮かべる時、うつ病というのはそこに入ってきません。いつも自分で自分のご飯を準備する元気がある。自殺を考えたり、唯一「生きなくては」と思わせてくれるペットの猫を撫でながら、ベッドから出られずにいるということもない。薬もちゃんと飲む。健康に良いご飯を作り、マニキュアやペディキュアを買うだけの小金と時間もある。積極的に運動にも参加する。趣味をもって、友達とも出かける。そして自分の面倒を自分で見ることができる。

でも、そんな理想の人生はおそらく実現不可能なのです。私の脳の化学反応は変わらず、病気はずっと私に取り憑きつづけるだろうと考えるほうが現実的です。この現実を踏まえた上で、私にとっての最良の人生とはどんなものなのか?

それはこんな感じです。強く、深く結ばれた思いやる人たちのコミュニティがあり、自分が立っていられない時に支えてくれる。私が困っている時に、私が声をかける前に(恐らく声をかけるということができないだろうと)察して様子を見に来てくれて、私に必要なものはなにか考えて、それを持ってきてくれる人たちがいる。ご飯を食べさせてくれる友人や仲間がいて、シャワーや着替えを手伝ってくれて、私にもできそうな仕事を探すのを手伝ってくれて、入浴剤やお茶やお酒やタバコやハーブを差し入れてくれる。お金を寄付してくれる。そして私は返さないーー少なくともその場では。そしてそれで構わない。

他の人のお荷物になることをスティグマとする文化があり、それがセルフケアという言葉に強化されて、障害のある人たちはしばしば、なんとか自分にできる範囲で自分の面倒を見ようとし、しばしばその結果苦しむことになります。助けを求めることへのスティグマは健常主義のスティグマで、取り払わなくてはなりません。社会的に受け入れられる「お荷物」というのはだいたい、配偶者とか家族のような身の回りの人に対するものだけです。でも、そんな小さなグループでは背負いきれないこともあるし、家族やパートナーのような人を持たない人もいます。私が生き延びようとするなら、私の味方のチームが必要です。元気なときには私にできることをしますが、もしそうできないときでも、それでも私には生きる権利があります。

鬱の症状が悪化していく中で気がついた重要なことは、私は恥だと思っていても、私のコミュニティには実際には私のお荷物を進んで持ってくれる人がたくさんいるということでした。最初のFBでの投稿の後、「あなたを支えるために私に何ができる?」と尋ねるメッセージやメールを受け取りました。この質問は私のお気に入りになり、私自身が、誰か苦しんでいる人に最初に尋ねる質問になりました。私は、罪悪感があるからとか、自分の面倒を見てくれた人に恩返ししないといけないと感じるから、この質問をするのではありません。私がそうしたいと思うから、そして、そうすると自分の気分が良くなるから、そして相手を愛しているから、こう質問するのです。時には、これは「運動」の重要な一部で、私が最も得意とする部分でもあります。

私のコミュニティの人たちが私の世話をするのも同じ理由です。そうすることに喜びを感じたり、目的を持つことができたり、様々な理由で、そうすることだけが彼女たちに可能な「運動」の仕事であったりするのです。セルフケアと言う言葉が思い出させてくれるように、自分たちのことを大事にし、生き延び、栄えることはラディカルな行為です。そして、互いのことを大事にすることも。

厳しい、自己満足の理想主義は、この世界でやっていくために他人のサポートが必要な脳や身体を持つ人にとっては十分ではありません。セルフケアに依存しすぎることは、アメリカ文化の基礎を揺るがすというよりも補強してしまいます。他の人に迷惑をかけることへのスティグマをなくし、助けを求めることを普通のことにし、健常主義に立ち向かう必要があります。コミュニティケアのモデルに移行することは、それ自体が重要な手段です。入浴をよりリラックスできるものにする方法よりも、「困っている友達に手を差し伸べる10の方法」を学ぶことに集中できるようになるでしょう。

コミュニティケアとは、他の人に迷惑をかけることを恐れて1人で困っている私たちみんなにとっての解放を意味します。生きていくために必要なサポートを受けられるということです。もしあなたの知っている人がそういう苦しみを感じているのに気がついたら、その人が自分自身でどんなことができるかを教えてあげるかわりに、「あなたを支えるために私に何ができる?」と聞こうとしてみてください。もしあなたにそれが可能なら。なぜなら、みんなで一歩進もうとするとき、自分自身の力で進む事ができる人もいれば、誰かの助けがあって初めてそれが可能になる人もいるからです。

 

 

Abeni Jones

Abeni Jones is a black trans woman, artist, writer, educator, and graphic designer living in New Orleans, LA. Follow her on Twitter or check out her website at abenijones.net.