feminism matters

英語(とたまに韓国語)のクィア・フェミニズム系記事の翻訳の貯蔵庫。

なぜ「私は人種差別主義者ではない」というだけで話を終わらせてはいけないのか

Why "I'm not racist" is only half the story

なぜ「私は人種差別主義者ではない」というだけで話を終わらせてはいけないのか

 

Robin DiAngelo

2018/10/1

 

www.youtube.com

 

(以下は、動画の内容の要約です。トランスクリプトではありません。)

 

あらゆる抑圧のシステムは変幻自在で、批判に適応し、飲み込んでしまいます。例外を作り出します。公民権運動の批判にさらされ、人種主義のシステムも適応し、形を変えましたが、その最も強力な形が、人種主義を非常に単純な枠組みにしてしまうことでした。人種主義というのは、常に意識的に(そう、常に意識的でなければなりません)、人種に基づいて人を嫌い、意図的に意地悪なことをする個人(システムではなく、常に個人の問題)である、という考え方です。個人、意識的、意図的。そして、もしそれが「私の」人種主義の定義であれば、私の発言や行動のなにかが人種主義的だとか、人種主義的な効果をもつというあなたの言葉を、このように受け取ることになるでしょうーーあなたはたった今、私を悪いやつだと言っている、と。私を、「あっち側」の人間扱いしていると。

私がもっているバイアスは、たいてい意識にはのぼりません。だから、私はわざとやったのでもないし、意識的なのでもないのです。だから、自分が悪いやつではないと自分を擁護せねばならず、私もそうするだろうし、みなさんもそういう場面をみたことがあるでしょう。この人種主義の定義を採用するなら、普通の白人の人が、自分が社会の中に適応してきた過程を振り返り、不可避にも内面化されてしまった人種的偏見、人種主義的な行動パターン、そして人種主義のシステムが維持されるような行動をとり、そこから利益を得ていることに気づくことはほとんど不可能です。なぜならそのシステムは非常に居心地がよく、自分の利益にかなっているからです。だから、先にあげた人種主義の定義や、善悪の二項対立的考え方は、人種主義というテーマに対する白人の神経質的な自己擁護の態度の根本原因だと思います。なぜなら、このような考え方だと、普通の白人の人たちが、人種主義の水の中で泳ぎながら不可避にも吸収してきた人種主義的な世界観について話すことがほとんど不可能だからです。

「白人のかよわさ」(white fragility)という言葉は、私達の世界観、アイデンティティ、人種的な立場が批判を受けたときにあまりに多くの白人が示す、神経質な自己擁護の態度をとらえるための言葉です。非常によくある流れだと思います。この言葉が多くの人の共感を得るのには理由があると思います。自分で、「白人のかよわさ」について説明しようというこの瞬間にも、白人の人たちが、人種主義の話題や、自分が人種のことで批判を受けていると感じたとき、非常に自己擁護的になるのは見て明らかです。

だから「かよわさ」というのは、いかにそんな自己擁護的な態度にさせるのが簡単か、ということを示しています。多くの白人にとって、白人であるということに何らかの意味があるという意見すら、非常な動揺をもたらすのです。また、白人というのを一般化されることにも、非常に動揺します。たった今、私も白人というのを一般化して話しているわけですが、それこそがこのイデオロギーを暴くためのことです。つまり、多くの白人は、自分自身を個人として見るように育てられるのです。だから、一般化されるのが嫌いです。しかし、社会的な生活というのはパターン化されており、具体的に観察・予測することが可能です。もちろん私達はそれぞれにみんな独自の存在ではありますが、同時にに、社会的な集団の一員でもあります。そして、そのメンバーシップというのは大きな意味を持つのです。非常に重要なのです。

私の母や私が、無事に出産ができるか、どのくらい長く生きるかといったことも、人種によって予測することが可能なのです。私達の人生において非常に大きな意味を持つ、ある集団に属しているという事実からくる集団的経験のことを、もっと真剣に考える必要があります。私達は、人種によって深く分断され、不平等な社会に行きています。私達は、それを知っていると思っています。それをどう説明するか、というのは人によって違うでしょうが、私達の社会が分断されていて不平等であるというのは非常に、非常に明らかなのです。

白人である私達を、人種に関するトピックで動揺させるのが非常に簡単であり、その意味で非常に「かよわい」としても、私達の反応はまったく「弱く」ありません。この神経質な自己擁護や、傷ついた感情というのが武器に転化するのです。そして、この武器は、批判を無効にするのに非常に効果的なのです。白人の一人として、私はほとんど24時間いつでも人種に関して居心地の良さを感じながら生活しています。この居心地の良さが失われるというのは例外的な瞬間であり、そのような居心地の良い空間を出ていくなと注意を受けながら私達は育てられてきているのです。

だから、人種に関して居心地の悪さを感じるという例外的な瞬間に、私の人種についての「てんびん」がおかしくなってしまったように感じ、元の状態に戻そうとするのです。そのために、批判をかわすためのあらゆることをします。そうすることで、「白人のかよわさ」は、平たく言えば、白人による人種的ないじめとして機能するのです。私達は、有色人種の人たちが、白人が不可避にも、そしてしばしば無意識に示す、人種主義的なパターンーー人種主義が基礎となっている私達の文化の中で社会生活を送るうちに、発達させてこざるを得なかったーーについて話すことを非常に惨めな経験にしてしまいます。あまりにもそれが惨めな経験なので、有色人種の人たちは、そのことについてほとんどの場合口を閉ざしてしまうでしょう。多くの有色人種の人たちが、白人に囲まれた環境で働いたり、生活しながら、私達に話してくれるよりもずっと多くの傷や侮辱を受けて家に帰るのだということを理解せねばなりません。